検索上位表示にぬか喜びしてない? パーソナライズド検索を解除する方法
Gooleのパーソナライズド検索とは
パーソナライズド検索を解除する方法
パーソナライズド検索を解除するにはいくつかの方法がありますので、紹介いたします。
シークレットモードで検索する
シークレットモードというのは通常、検索履歴などを残さないために使うものなのですが、これをONにしておくとパーソナライズドされずに検索を行うことができます。
ブラウザにChromeを使っている場合は、右上のオプションアイコンからシークレットモードにすることができます。
Windowsの場合は「Ctrl+Shift+N」、Macの場合は「⌘+Shift+N」でも開くことができます。
Chrome拡張機能を使う
シークレットモードの場合は新たにウインドウを開いてしまいますので、それが煩わしいという場合は、Chromeの拡張機能を使うことでタブ毎に開くことができます。今回は説明しませんが、複数のアカウントでログインしなければならないときなどにも便利です。
同じような機能を持つ拡張機能はいくつかありますが、僕はopenMultiLoginを使っています。
使い方はとても簡単で、拡張機能をインストールしたあとに、バーの右上にあるアイコンをクリックすることでタブを開くことができます。
タブで切り替える
パーソナライズド検索された後に、それを解除する方法もあります。
まずは普通に検索すると、右上に以下の写真のようなタブが出てくるかと思います。始めは、人型アイコンの方になっています。
これを地球アイコンの方に変更すると…。
僕の記事の順位が一つ下がったのがよくわかるかと思います。
パラメータを付与する
検索結果URLの末尾に「&pws=0」にすると、パーソナライズド検索を解除することができます。
あまり使うこともないと思いますが、何かあったときに…。
まとめ
以上、パーソナライズドを解除した検索結果を表示する方法について、
- シークレットモードにする
- Chrome拡張機能を使う
- タブで切り替える
- パラメータを付与する
の4つの方法を紹介いたしました。自分で一番使いやすい方法で試してみてください!
【結果発表】第二回140字小説大賞
もう11月です。すっかり寒くなってきましたね。
さて、10/1〜31の間で募集をした第二回140字小説大賞について。選考が完了しましたので、結果を発表させていただきます!
今回は298編の応募をいただきました。第一回が248編でしたので、50編ほど応募作品が増えました。この1年で140字小説界隈が盛り上がってきたなという感覚も特にないのですが、じわじわと書き手が増えているのかなと思いました。
選考フローについて
すぐに結果発表というのも味気ないので、今回の選考フローについて説明させてください。
第一回も同様でしたが、身内びいきをしないように投稿いただいた情報からTwitterユーザー名を隠した状態で選考を行いました。まずすべての作品を読んで、いいなと思った作品をすべてピックアップしました。1次選考のようなものですね。この時点で49作品にまで絞り込みました。
2次選考以降も、選考委員は僕しかいないので僕の個人的な好みで選びました。その結果、大賞1編、優秀賞3編を決定させていただきました。
このうち、優秀賞3編は結果として雰囲気が似ている作品が集まったのかな…と個人的には考えています。また来年も第三回をするかもしれませんので、参考にしていただけるといいかもしれません。ただ、来年の僕は今年の僕と同じではないので、全く参考にならないかもしれませんが。
結果発表
それでは、結果は発表させていただきます。
僭越ながら、講評めいたものも書かせていただいております。その中で「主体」という言葉が何度か出てくると思いますが、140字小説を語る上では、「作品における物語上の主人公」くらいの意味を表わすのだと、ここで僕と合意してからこの先を読み進めてください。どうぞよろしくお願いいたします。
大賞
これは他のところで言ったことなのですが、五教科の中で一番感傷的なのは数学だと思っています。国語もかなり感傷的なんですけど、文芸をやっているときっていわば国語をやっているわけで、そこに国語を入れ込んでもどうしようもないんですね。水に水を注いでも、水にしかならない。140字小説に数学の概念を持ち込んでみようというのは、砂糖水を作るような試みなんですね。いや、もっと凄いかもしれない。でも、僕の少ない現代短歌の鑑賞経験では、数学を持ちこんだものには素晴らしい作品が多いように思います。
もう数学を持ち込んだだけで大賞に推したくなってしまうのですが、そうすると他の方に怒られてしまうので、中身にも触れさせていただきます。ここでは、まず「放物線が好きだった」という感想が述べられています。その理由は、そこに「強烈な自由を感じた」から。まず、ここまでの言葉選びが完璧です。「放物線」「座標平面」「無機質」「格子」「曲線」「自由」。こう並べてみると、やはり数学関連の言葉が多いような気がしますね。そして肝心な「放物線」に「強烈な自由を感じ」るというところなのですが、よく考えたら僕にはぜんぜん意味がわからないんですね。だって、放物線って与えられた数式に則って決められた形にしかなれないじゃないですか。そこに自由なんてあるの? と思ってしまいます。しかし、この140字小説全体を読んだときに、確かに放物線が自由であるように思えてしまうのです。
それは何故か。答えは、「xとyの値の変化を美しく図示ことができなかった」という一文に詰まっています。当たり前のことをいうようで恐縮ですが、放物線はxとyの値によって様々な形に変化するのですね。この140字小説で取り扱われているのは、問題集の1ページに掲載されている単一の放物線ではなく、これまで解いてきた問題に載っていたすべての放物線なんですね。それを一つの概念として抽出するときに、それは動いているように感じられます。
ところで、「xとyの値の変化を美しく図自すること」ができるのは、いったい誰なのでしょうか。「きっと私は大人に近づいてしまったのだ」という言葉を手掛かりにするならば、それは「子ども」だということになるでしょう。これは前述された「自由」の象徴であり、本文でも鉤括弧つきの「真面目な優等生」とは性質を異にするものです。
つまりこの140字小説で言いたかったのは、たかだか「私は真面目だから子どものままでいられなくて、自由を失ってしまった」くらいのことなんですね。それを言うために、数学やら放物線やらxやyやらを持ち込んでえらく遠回りをしている。でも、140字小説を書くときにはその遠回りが大事なのです。たかだかそれだけのことを、個人的な事件や真実を媒体にして比喩を織り込んで届けられるのか、というところに意味があるのです。と、いうのが僕の140字小説のスタンスですので、この作品を大賞に選ばせていただきました。
あと、最後に一つだけ書かせていただくと、個人的には「座標平面と言う名の」は「座標平面という名の」にするかなと思いました。作品の質にはほとんど関係ないんですけどね。
優秀賞
衒学的な世界観作りというのは訓練すれば誰でもできることで、Wikipediaから哲学やキリスト教の用語を引っ張り出してくれば何だかそれっぽくなってしまうんですよね。世界観が先か書きたい事象が先かというのはまさに鶏と卵だと僕は考えているのですが、ここで重要なのは世界観と事象がうまく比喩で結びつけば大きな推進力を得るということです。
ここでは、まず「神」という言葉が初めの方に配置されています。ここで「磔の聖者(=イエス)」、「オルレアンの乙女(=ジャンヌ・ダルク)」を例示することによって、「神」で予感していたキリスト教的世界観が強固なものとなります。「磔の聖者」のようにそのものずばり言わないのも世界観作りに一役買っていますね。
さて、僕がこの作品の中で最も不可解なのが「己に向けられた刃」という部分でした。でも、ここは不可解だからいいのかもしれません。僕は最初、人が通り魔に殺される瞬間を想定しました。でも、それだったらせっかくここまで築いてきた世界観から覚めてしまう。それじゃあ他に刃を向けられる瞬間……文脈からして無意味に殺されているのは前提として……などというように想像を巡らすことができます。具体的な風景をここで排除したのは、そういう意味で正解でしょう。そうして、冒頭の「神の子」と最後の「人の子」を呼応させるのもうまく効いていますね。
個人的には、「唯々純粋」は四字熟語に見えてしまうので、「ただただ純粋」と書きたいところ。ただ、この作品は140字ぴったりなので、そうするとどこか2文字減らす必要がでてきます。それをどうするか……というのも、140字小説を書くうえでは必要な技術でしょう。
上の作品では偉そうに「世界観と事象がうまく比喩で〜」と書きましたが、これは世界観優先で選んでしまいました。というのも、上の作品がキリスト教という超巨大な物語を挿入して文脈に依存している部分があったのに対して、こちらはかなり意識的に自分の信じる言葉たちを選び取っている。そういう意図が感じられます。
複雑に絡み合う言葉を解きほぐすことなくさらさらと読んでしまって「あー、わかるー」と言ってしまってあと何回か読むのが気持ちいタイプの作品だと思うのですが、それを解きほぐすのも仕事のうちかと思いますので、ちょっとだけ書かせていただきます。
まずこの作品で注目したいのは「玉虫色の青春」です。これが遡って物語ぜんぶを修飾してしまいます。これはつまり、青春の物語なわけですね。そして、それが「精神に毒」だと言っているわけですから、キラキラ光った青春って素敵だけどずっと触れているとキツイよねみたいなことを言っているのでしょう。
そして一つ遡って登場するのが「君」の存在。「私」が「熱視線」を送っていること、日焼けを「健康的」とポジティブに評しているところ、そしてそれを「恨めしい」と思っていることから、主体が「君」のことを好きなのだということがわかります。ということは、前半の「焦燥感の入り混じる渇望は、純粋な狂気を加速させる。近頃の脳内の世界がまるで終末そのものであることは、私しか知らないみたい。」はぜんぶ「君が好き」というただそれだけに収束するというのですか!なんと!なんだかんだいって、これは「君が好き」と「青春」だけに収束してしまうのですか!なんと!この遠回りのしかたが、もうたまらなく愛しいじゃないですか。
ところで、「私しか知らないみたい」という箇所に対しては、「いやお前しか知らないだろうよ……」という感想を僕は抱いてしまいました。「〜〜しか知らないみたい」という言い回しはお手軽に感傷的な雰囲気を作り出せて便利なので僕もよく使うのですが、意味が通るように気をつけた方がいいかもしれません。また、全体的に見たときに「私の熱視線で焼死することのない」という部分が大仰すぎるのではないかと感じました。
「深い虚無」という感情と「浅い水溜まり」という具象。対立させても意味のないものを対立させることで、衝撃して何か生まれそうな感じがありますね。僕の中では何かが生まれました。「雨」に関連する言葉はネガティブなものが多いので、「水溜まり」は「虚無」と相性がいいですね。
そして、その後で「悲しみを歌う」という聴覚に関わる表現が加わることによって、物語が少し広くなっています。「〈感情〉を歌う」という表現はもう定型化していて間違って使うと陳腐になってしまうのですが、深い⇔浅いの直後なのでセーフです。
特にいいのは、次に来る「涙」と「空から降る雫」の温度に関する対比ですね。そうか、この140字小説には二つも対比が……。「空から降る雫」は、「雫」で意味がぼやけちゃうので、そのまま「雨」としてしまって良かったかもしれませんね。実はそのあとの「寧ろ」「更なる」も「むしろ」「さらなる」と僕ならなおしてしまうのですが、「虚無」という言葉の中二属性を考えるにこのくらい漢字を織り交ぜておいた方が作品全体の雰囲気は整うかもしれませんね。
そして、最終的には雨が冷たいからさらに悲しくなる、と。泣きっ面に蜂というやつですね。曇天や雨は悲しみは涙の比喩となることもありますが、ここではそれが混在しています。そうか、だから最初から「虚無」と「水溜まり」を同時に出して、この一体感を演出していたのか!と勝手に独り合点しました。いや、別に意図していたかどうかはわからないんですけど、少なくとも僕は最後まで読んでそのように受け止めました。
さいごに
以上、結果発表と僕の講評めいたもの(感想?)でした。
言葉も比喩も物語も、事象の変奏であり概念の形骸化です。だから、素材がどんなにくだらなくてもそれを捻じ曲げたり美化したりすることはできるのです。
もちろん、そこに新たな概念があればなお良いのですが、人類が言葉や文字を生み出し、真剣に学問をしはじめてからもう何千何万年と経つのに、そうやすやすと斬新な概念とか見つかりっこないわけです。
じゃあそれを受け継いで、現代に生きる僕らがどう再構築するのか。そこに命をかけるべきなんですよ。
何か新奇なものを見つけたかのように大騒ぎして飾り立てる。僕はいわゆるネクラなのですが、文章の上ではパリピになることができます。みんなもどんどんパリピになりましょう。盛り上がって嘘ばっかりつきましょう。そうして、自分だけの言葉(本当はそんなものないんだけど)を探しましょう。
140字で文章を書いて物語を書く必然性なんてどこにもないんだけど、Twitterという拠り所だけを唯一の言い訳にして、僕はこれからも自分だけの言葉を獲得していきたいと思います。
今回の大賞は、荒野というよりも本当に何もなくてまだ「無」と呼ぶしかない140字小説を共に開拓してくれる仲間を探す試みでもありました。
皆さま、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
あまりにもニッチすぎる検索ワードへの個人的な回答
日々Google Analyticsとにらめっこを続け、給料が上がることよりもPVが増えることの方が嬉しいブロガーの鏡であれば、記事を書くときに「どんなキーワードで流入してくるだろうか?」ということを考えるはず。
しかし、人間一人の想像力なんてたかが知れていて、時には考えもしなかったようなキーワードでブログに誰かがたどり着いている、というようなこともあります。
ところが、たどり着いてくれたはいいものの、その問いに僕の記事が答えられていないだろうなあと感じることは多々あります。そこで今回は、当ブログに過去流入してきたキーワードを質問と捉え、僕がその質問に勝手に回答していきます。
Q.instagram フォロワー増えない やめようかな?
A.このような発想をする方は、恐らく他のSNSやブログ等である程度のフォロワーを獲得しているのではないでしょうか。そうであれば、すでに多くのファンを獲得してる場所で、Instagramアカウントの宣伝をすることは非常に有効なのではないかと思います。もちろん、写真のクオリティはある程度必要だと思いますが、継続的に投稿していればそこは徐々に改善されていくはずです。他のSNSやブログでもフォロワーが少ない場合は、Instargamをやめた方がいいと思います。
Q.ギャラクシーのラインからパソコンに画像を送りたい
A.ギャラクシー、とカタカナで書いているところがかわいいと思います。メールとかで送ればいいと思います。あとは、LIINE自分だけのグループを作ってそこに送るのも割とおすすめです。
Q.きょうしょく とるの大変?
A.大変です。もう勘弁してください。
Q.さありかは
A.猫がキーボードを打ったのですか?
Q.じゅげむ 学芸会 主役
A.頑張ってください!
Q.た、、さ
A.打ち間違えかと思いましたが、これで検索して僕のブログ記事をクリックしているんですよね。どんな意図があったのでしょうか。死にかけっぽいですが、まだ生きていますか?
Q.なぜ芥川賞作家に東大がいなくなったか
A.どなたか詳しい方にお任せいたします…。
Q.フロリゲンはどうしてしかんをとおるの?
A.なんですか?????
Q.ラインではなくチャットワークを使うメリット
A.と検索する人は、LINEだけで大丈夫だと思います。
Q.永眠したさある
A.生きるんだ!!!!!!!
Q.関系(かんけい) ないでしょう。
A.すみません…
Q.去就という言葉はよく使う?
A.あんまり使わないと思います。
疲れて来たのは、今日はこの辺にしておきたいと思います。
普段はこうしてじっくりと検索キーワードを眺めることもないのですが、一つひとつ確認していくと、かなりニッチな複合ワードで来ている人が多いんだなということに気づきます。とすると、誰がブログを始めてもまあ誰か検索キーワードで来てくれるでしょう。
僕の場合、「からう」「教職」あたりの複合ワードで来ている方が多かったです。とすると、そのあたりでまた書くともっと人が来てくれるのでしょうか…
さよならに託す
ピンク色の空が出現する前から私は死ぬと決まっていて、有限の時間や空間をどうやりくりするかということに命をかけている。君と初めて抱き合った日のこと、実はもうよく覚えていない。いつでも刹那主義な私を、君だけがいつまでも記憶していてくれればいいよ。さよならは、来世のためにとっておこう。
— 篠原 歩@文フリ福岡う-19 (@shino140nov) 2016年10月21日
「寂しかった」なんてただの性欲の証明
何の話をしていたか分からなくなってしまったのですが、つまりはこういうことです。
寂しかったなんて言い訳、情報伝達機構の発達した現代ではただの性欲の証明だね。人肌が恋しいなんておぞましい。とおくにいる私の声もテキストもいつだってあなたに届いて、最新の私が同期されているはずだったのに。あなたが愛した私の本性は何。我慢のきかない君のことが、私には我慢ならなかった。
— 篠原 歩@文フリ福岡う-19 (@shino140nov) 2016年10月16日
「雨谷 ハル」さんの140字小説を「篠原 歩」風に書き換えてみた
こんにちは、あとーすです。
いつも、篠原 歩という名前で140字小説を書いています。
そして、僕の大好きな140字小説作家に雨谷 ハルさんという方がいるのですが、今回なんと幸福にも雨谷さんの140字小説を篠原流に書き換えていいよというお許しを得たので、ここから先は僕が好き勝手に遊ぶターンです。どうぞよろしくお願いいたします。
夜、夢を見ていたら、私は高校生になっていた。先日結婚式で再会した友人が若くて、時間が戻っているのだと思った。チャイムが鳴る前に、私は教室を出た。この時間は彼が裏庭にいること、もう10年も経ったのに覚えてる。彼が私に気付く。今でも目が合ってそれだけでいいなんて、甘すぎて溶けそうだ。
— 雨谷 ハル (@_amgyhar_) 2016年10月23日
高校生へと退化を遂げた夢の中。結婚式の二次会で泣いてたあの子が、隣の席でまだ最高な少女のままだった。チャイムが鳴る前に教室を出る。10年経っても、彼はまだずっとあの裏庭にいた。振り返って瞬き合う視線。それだけで十分なんてなんの冗談と思うけれど、その駄菓子みたいな甘さが愛しかった。
どこまでも知り尽くしたこの町で、僕らはこれからも生きていく。幼い頃に指切りをした未来も、高校生の頃に君が都会へ憧れた涙も、全部知って分かっている。僕もこの空気に守られて生かされてきた人間だから。町が見渡せる山の頂上、変わらない2人の秘密基地。あの頃とは違う僕らで、将来を誓い合う。
— 雨谷 ハル (@_amgyhar_) 2016年10月23日
知らない人のいない町で、僕らはずっと生きていく。幼い頃に指切りした未来も、青春の君が都会へ憧れた涙も、ひとつ残らず覚えている。町が見渡せる小さな山の頂上、草の生い茂る2人だけの秘密基地。まだ清純な君と僕をこの町が庇護してくれている。あの頃と違う僕らで、ひっそりと将来を誓い合おう。
(これ、書き換えながら「『君の名は。』を思い出して書いたな…」と思いました。違ってたらごめんなさい。)
大人になって綺麗になったとしても、それがなんなの。私が確かにあなたを好きだったのは、制服を着ていた頃なのだから。今更嬉しい言葉をもらったとしても、私は精一杯あなたを嫌いになるしかない。あの頃の私があなたを思っていたように、今度はあなたが反芻していればいいよ。憎むなら過ぎた時間を。
— 雨谷 ハル (@_amgyhar_) 2016年10月21日
垢抜けた私に目をつけた君が嫌いだ。私が好きなのは、制服を着ていたときの君だけ。今さらなその愛情はすでにごみなので、あの頃の私みたいに消化できないまま反芻してヘトヘトになってください。憎しみの主体は私と君で、客体は長すぎる空白の五年間だ。恋慕は賞味期限付きだし、すぐに腐ってしまう。
以上、三編の140字小説を書き換えてみました。
他の方の文章を自分なりに書き換えようとすると、何が「自分らしさ」なのかということが、少しだけわかるような気がします。特に雨谷さんの140字小説は物語がしっかりとしているので、それをどこまでぶち壊して言葉のリズムを生み出すかということに今回は心血を注いだように思います。いやはや本当に、ぶち壊して申し訳ありませんでした。
青春コンプレックス
2年くらい140字小説というものを書いています。140字小説って何かというと、文字通り140字で書く小説のことなのですが、「140字で小説なんて書けるわけがない!」とか「小説というより詩じゃないか!」と言われることがあります。まあ僕として1つのツイートの中で実行された文芸作品はすべて140字小説と呼ぶくらいの気持ちでいます。何を模造しているのかもはや誰もよくわかっていないのに、「模造紙」と呼んでしまう、そんな感じで、「140字小説」という名前を作って呼び続けることは、それほど悪いことではないように思っています。
冒頭から話がそれました。そう、140字小説を書いているんですね。これは前提なんですね。そこで、僕は青春をテーマにした140字小説を書くことがよくあります。そこで描かれる青春はなんというかドロドロしていて、およそ皆さんが「青春」と聞いて思い描くようなきらきらとしたものではないはずなんです。まあ、青春のすべてがあまりにも悲惨すぎて全くきらきらしたイメージを抱けないという方もいると思うのですが、そういう人は『君の名は。』の感じだと思っておいてください。観たことがない人は、とっとと観てください。
ドロドロとした青春を書くと、なんだか知らないですけど凄く反応がいいんですよね。ここでいう「反応がいい」というのは、リツイートやいいねが多いということです。他の作品に比べて、圧倒的に反応がいい。それは、僕の140字小説用のTwitterをフォローしている人が、あるいはそれ以外の多くの人たちも、青春にすごいコンプレックスを残してきていることの証明なんじゃないかなと思うんですよね。
同級生がすべて猿に見える色眼鏡を外したら、何も残らなくなることがわかっていて、傷つきながら息を教室の隅で潜めていた。孤高の凡人。お弁当の時間が何よりも窮屈な地獄で、私は栄養を補給したいだけなのに、コミュニケーションを強制されてはたまらない。と逃げていた、10代が今まさに墜落する。
— 篠原 歩@文フリ福岡う-19 (@shino140nov) 2016年10月23日
青春小説とか青春漫画ってまやかしがひどすぎて、そういう完全につくりものめいたものも好きなんですけど、あまりにもリアルすぎる青春小説の方がやっぱり僕は好きです。それは、綿矢りさが初期に書いた『インストール』と『蹴りたい背中』が大好きだという告白とほぼ同義です。
でも、そういうドロドロとした青春って、とても個人的な経験なんですよ。ぜんぜんポップじゃない。共感も生み出さない。個人的なことを深掘りしていかないといけない。つくりものの青春では見出せないところなのに、でもそういうことを言葉にすると、どうしてだか共感を得てしまう。せっく僕の特異な青春経験を言葉にしたのに、「それ、私もわかります!」と言われてしまう。それって幸福なことなのだろうか。ちょっとよくわからない部分があります。
まあ、よく考えたらお弁当を一人で食べたいときとか、別にみんなに共通の経験だと思うんですよね。僕は実際にお弁当の時間というのが死ぬほど嫌いで、みんなが一人でお弁当を食べる世界だったらどんなにいいだろうかと思っていました。確かに、ごはんを誰かと一緒に食べるのは楽しいことだけど、それは毎日でなくてもいい。それなのに、みんな当たり前のようにお弁当を誰かと一緒に食べる。母親とかにも、「今は誰と一緒に誰とお弁当食べてるの?」とか聞かれてしまう。親子二世代で地獄なのかよまじかー、と思って死にたくなってしまったことをよく覚えています。でもたぶん、母親にとっては一緒にお弁当を食べること自体が地獄なのではなくて、一人でお弁当を食べることが地獄だと思っていたんでしょうね。そこに認知の差がある。まあ確かに、僕も一人でお弁当を食べるよりも誰かと食べている方が幾分か地獄感が薄まるので、なんとかお弁当グループにすがっていましたけどね。でも、一人で食べるのがもっと普通だったら、僕は絶対に一人でお弁当を食べていた。という個人的な経験を僕はずっとずっと温めてきたんだけど、これも共感されちゃうんだろうか。
青春ってもう何十年も何百年も前から色々な人たちが掘っていて、でもやっぱりそれぞれが生きていた年代が違うからこそ違うものがそれぞれの時代に眠っていて、僕はそこにある1993年生まれの青春に特有の真理みたいなものを見つけたいと思っているんですよね。真理というけれど、それは別に全員に認められる必要はなくて、僕個人の、あるいは僕に似た誰かにとって真理とか真理らしきものであればいいというくらいの話でして。うーん、なんかしどろもどろになってきてしまった。
何の話でしたっけね。140字小説と青春の話でしたね。で、たぶん真理らしきものって、ドロドロとした青春コンプレックスの中にあるのではないかと思っていて。楽しいだけの青春とか、嘘なんですよ。あとは、きらきらとした贅沢な悩みばかりの青春も嘘っぱちなんですよ。もちろん、嘘っぱちの青春がほしくなるときもあって、そういうときは何回もいうけれど『君の名は。』を見ればいいんですよね。大好きですよ、新海誠。でも、どう頑張ったところで深海誠の作品は青春コンプレックスに入ってこれないんですよね。嘘っぱちなんですよね。そこで、綿矢りさとかが重要になってくるわけなんですね。
青春時代に帰りたいと思うことがよくあります。僕が高校生の頃、ずっと大人になりたくないと思っていました。僕はずっと、高校生のままでいたかったんだと思います。ドロドロとした青春しかなかったのに。きっと、いま生きているよりもつらいことなんてたくさんあったのに。ビールも飲めないし、車にだって乗れないのに。そういうものを捨ててまで、また高校生の頃に戻りたいと思うことがあります。まあ、実際にはどう願っても戻ることはできないので、お酒は飲むしどこまでもドライブしますけども。
ただ、いつまでも青春をほじくりまくることはできて、僕はそれをしたいし、できれば嘘っぱちじゃない青春をいじくりまわしたいなと思っています。それは1993年生まれ特有の経験であって、「それ、古いですよ」と言われることもあるかもしれないけれど、でももしかするとそう言われた時が成功したときなのかもしれないですね。あとは、1993年生まれも2016年生まれも、ドロドロとした青春に大して違いはないんだとわかってもらえても、嬉しいかもしれない。やっぱりどこまで言っても、言葉というのは情報の伝達手段なのであって、自分のための言葉でも人に届くと嬉しい。そういうことばかりだと思うんですよね。
というわけで、もっと青春コンプレックスを満載にした140字小説を書きたいなーと思っています。