あとーすログ

文芸、演劇、カメラ、インターネットが好きです。

セリフ覚えが死ぬほど悪い人のためのセリフの覚え方

熊本で演劇をやっている。昔から死ぬほどセリフを覚えるのが苦手だ。大体、本番直前につらい思いをすることになる。

そして、本番前のつらい時期になると、覚えないと死が待っているのでめちゃくちゃ集中してセリフを覚える。というか、集中的にセリフを覚える方法を編み出し始める。

ただ、その多くを忘れてしまうので、また次の台本を渡された時にはセリフを覚えるのが死ぬほど下手くそになり、本番前にセリフを覚える方法を再発明することになる。

そして今回も見事にセリフで死んでしまったので、未来の自分のためにセリフの覚え方を書き記しておく。

 

場面を分ける

本番が近づいてくると大体やるのに、いつも忘れてしまうのがこれ。まず台本を覚えやすいサイズに分割する。

分割の仕方はなんでもいい。数回読んで、意味のまとまりで区切ったり、ト書きの位置で区切ったりする。自分の中で明確にシーンをわけることができればなんでもいい。

そして、区切る時にはシーン毎に番号をつける。こうすることで、覚える時に覚えているしーんと覚えていないシーンを簡単に峻別することができる。「◯番は同じような意味のセリフが続くから、覚えにくいんだよなー」みたいな認識を作り出すことができる。

また、番号を教えつけることで、いくつのシーンを覚えればゴールとなるのかがわかりやすくなる。「台本を全部覚える!」だとモチベーションを維持しにくいが、「◯番と◯番は完璧だ!」みたいな管理の仕方をすると、セリフ覚えの進捗を数値化して把握することができる。

ということに、今回も早く気づけばよかったのだ(中途半端に番号の振られた台本を見ながら)。

 

イメージとして焼き付ける。

セリフというのは物語上の必然として発生するので、ちゃんと読んで理解すればおのずとセリフが頭の中に浸透するのだろうけど、これではとても時間がかかってしまう。また、単純明快で直線的な話だったらいいのだけど、少しでも込み入った話になると、演じている側は何が何だか分からなくなることも多い。というか、稽古をしてシーンを当たっているうちにわかるようになってくることがほとんどだ。

だから、まずは話の流れなど無視してセリフを覚える。そのうち、「このセリフってこういうことなのかー」と実感できる瞬間がくるから大丈夫。

番号がふってあるなら、それに沿って覚える。まず、自分の台詞にマーカーを引く。そして、番号の中に自分のセリフが何個あるのかと、その位置を確認する。

そうして、まずはその番号の中で、自分のセリフがどのような順番で出てくるのかを完璧に覚える。これで大丈夫。

 

きっかけを覚える

 次にやるのは、きっかけを覚えること。

自分がどんなセリフを言えるのかどうかを覚えたところで、適切な場面で言うことができれば意味がない。

これは、できれば稽古の中で覚える方がいいと僕は思っている。というか、そっちの方が効率的に身につく。相手役の声と動きとセットで、自分がセリフを言うタイミングを掴むことができるからだ。ただ、そんなことを言っていると演出家を困らせてしまうし、セリフ入れが本番ギリギリになってしまう。

ということで、自分でセリフ入れをする段階では、自分のセリフの直前のセリフまで覚えるようにすると良い。あとは、そのセットがどのような順番で出てくるかを覚えるだけだ。

この覚え方は全く本質的ではないのだけれど、ひとまず覚えるのには役に立つ。あとは、稽古をする中でセリフを自分のものにすれば良い。

長セリフを覚える

ここまで書いてきて気づいたんだけど、どうも「セリフを覚える」というのには、

①セリフのきっかけを覚える

②セリフの内容を覚える

の2種類があることに気づいた。

そして、僕は基本的に①が苦手だ。短いセリフがたくさんあると、どこで何を言えばいいのか全然わからなくなる。ただ、きっかけさえ掴めれば案外すらすらと言えるものである。

ただ、ある程度の長セリフになると、やはりそれを覚えるのに苦労する。ただし、これも短いセリフを覚えるのとさして変わらないようにすることはできる。

まず、長いセリフをいくつかのブロックにわける。これは、大抵は句点(。)の位置で区切られる。そしてその区切りがいくつあるのかを把握する。番号を振ってもいいだろう。一つのブロックのセリフは短いので難なく覚えることができる。あとは、この順番を覚えるだけだ。

長いセリフは、次のブロックに進むためのきっかけが自分の中にあるので、むしろ短いセリフがたくさんある部分よりも覚えやすいと言えるかもしれない。少なくとも、自分一人でセリフを入れなければならないときは。

 

口に出して読む

色々とテクニックめいたことを挙げてきたけれど、最終的には口に出して読むというのが最強の方法なのかもしれない。特に、集中して覚えるほどでもない隙間時間などに、自分のセリフをぶつぶつと口に出して見るのは非常に効果がある。

というか、本番ではいちいち自分のセリフを頭で思い出していては間に合わない場合が多い。自然に口をついて出てくる必要がある。そのためには、やはり常日ごろから口に出してセリフを覚えておくことが重要だ。

 

まとめ

多くの人にとっては当たり前かもしれないけれど、セリフ覚えが悪い僕が本番直前に何度も再発明したセリフ入れの方法をまとめた。

他にも、良いセリフ入れの方法があったらぜひとも教えてほしい。

 

Amazonアソシエイトで月に10万円売り上げた話

という風に書くと少し凄い感じがするんだけど、実は全く凄くない。びっくりするくらいに凄くない。

Amazonアソシエイトで月に10万円売り上げたというのは本当の話だ。最終的には11万円と少し売り上げた。ところが、これはあくまでも「売り上げ」の話だ。10万円売り上げるって凄いなと自分で思ってしまったのだけど、いやいやぜんぜん凄くないぞと思い至ったので、いまこの記事を書いている。

 

Amazonアソシエイトの仕組み

まずはAmazonアソシエイトというものの仕組みを説明しよう。これは要するにAmazonが提供しているアフィリエイトプログラムのことで、僕が貼ったリンクから購入が発生すれば、そのうちのいくらかが僕の手元に残るという仕組みになっている。

このとき、別に僕が紹介した商品が購入される必要はない。僕が紹介したリンクを踏んだ人が、24時間以内に購入したものであれば売り上げとしてカウントされる。逆に、24時間以上経ってしまえば、僕の紹介したものが購入されたとしても売り上げにカウントされない。

そして、このAmazonアソシエイトは商品によって紹介料率が変わる。一番高いのはAmazonビデオで10%くらいあるんだけど、一番低いフィギュアはなんと0.5%しか戻ってこない。これはつまり、1万円のフィギュアを売り上げたとして、こちらの儲けは50円にしかならないということである。

また、僕のブログで紹介しているのは書籍が多いのだけど、これには紹介料率が3%に設定されている。フィギュアよりは随分とましだが、本は単価が安いことが多い。仮に1200円の単行本が1冊売れたとしても、36円にしかならない。Kindle本はAmazonが猛プッシュしているからなのか8%と高めの料率になっているけれど、僕のブログからKindleで買っていく人はほとんどいない。ビジネス書や漫画であれば電子書籍で買う人もそこそこいるのだろうけど、小説や文芸誌の類は紙で買おうという人が圧倒的に多い。かく言う僕も、ほとんどの本を紙で買っている。

 

Amazonの売り上げは11万円ほどあったわけだが、僕がこれで手にした「利益」はなんと4000円ほどしかない。すごい。利益率は3.5%ほど。ネットでリンクをペタペタ貼って月に11万円!と聞くと少し凄く見えてしまうものだけれど、手元に残ったのはたった4000円。好きでブログ書いている延長でもらえるお金なので別に何か不満があるわけではないけれど、4000円稼ぐだけであれば、バイトでもした方がよっぽど早い。

大きい数に騙されてはいけない

ただ、やっぱり大きい数字にはインパクトがある。以前、「Amazonアソシエイトで100万円売り上げました!」という人のブログを読んだことがあって、すげえと思って読んだことがあったんだけど、「売上」なので実際の利益はもっと少ない。このブログのタイトルと一緒だけど、いや普通は収益額の方を書くのではないか…?と思うわけで。

もちろん、自分の貼ったリンクからAmazonへ100万円分の注文が発生しているってよく考えたら凄いことなんだけど、でも自分の手元に入ってきた数字を見たら、やっぱりぜんぜん凄くない。

同じようなことは社会にゴロゴロ転がっていると思っていて、例えば会社でも売上が多くても利益率が低いようなところ、あるいは赤字ばかり計上しているようなところには入社してないよねという話。

あと、ブログでも月間PVではなくて「累計PV」という謎の指標を使って(まあ別に使ってもいいんだけど)大きな数字を見せている場合もあり、世の中いろいろと大変だなあと思った次第です。

 

まとめ

僕もよく「1記事で最高20万PVとりました!」と言うことがあるのですが、これも何日間で達成したのかによってぜんぜん「凄い」の度合いが変わってきますよね。1日で読まれた数かもしれないし、3年くらいかかってやっと達成した数値かもしれない。

でも、とにかく大きな数字を出されると、その裏に存在しているはずの背景が見えなくなる。そんなこともある。というお話でした。

熊本と福岡の距離感について

天神バスターミナルから、20:00ちょうど発のひのくに号に乗った。熊本市内に着く頃には22:00を超えるみたいだ。

 

僕は熊本に住んでいて、働いている会社も熊本にある。今日は福岡でのセミナーに参加するために朝からバスで福岡までやって来た。往復4時間。実際は高速バスに乗るためにもう一本バスに乗っているので、もう少し時間がかかる。

 

実は明日も朝から福岡に行かなければならない。別に福岡に泊まっても良かったんだろうけど、会社からは帰って来いとのことだったので、こうしてバスに乗っている。確かにぜんぜん帰れない距離じゃない。今日も7時間くらいぐっすりと眠れるだろう。

 

僕の勤めている会社は本社が熊本にあって、福岡にも事務所を持っている。当然、熊本勤務の人は熊本に住んでいるし福岡勤務の人は福岡に住んでいるんだけど、福岡勤務なのに週の半分くらいは熊本に来ている人もいる。熊本に泊まることもあるけれど、大抵は午前中に熊本へ来てその日のうちに福岡へと帰って行く。

 

今までは熊本と福岡って遠い印象があったんだけど、こんな風にした2日連続で行くことになると、思ったより近いのかなと思う。僕はバスで行くから乗り継ぎとかでちょっと面倒くさいけど、たぶん車だったらもっと簡単に行けるはずだ。

 

とはいえ、高速バスだと往復で3000円くらいする。車でも、高速代とガソリン代を考えたら往復2000円くらいかかってしまうんじゃないだろうか。仕事にかかる経費だと思えばいいけれど、土日にふらっと熊本から福岡まで来れるかなあと思うと、少し戸惑ってしまう。買い物をするなら別に熊本の市街地で事足りてしまう。福岡で観たい演劇をやっている場合もあるけれど、チケット代よりも交通費が高くなってしまうので躊躇してしまう。

 

僕は福岡県の久留米市というところの出身なんだけど、中学や高校の同級生たちは週末になるとよく天神に行っていた。往復1200円。特急だったら30分くらいで着く。

 

中高生にとっての1200円は大きい。当時はまだ税込105円だった古本が11冊も買えてしまう。実際、一度に20〜30冊くらいいっぺんに買って来て、でも読み来れずに絶望するような高校生だった。でも、天神に行くよりは絶対に有意義なお金の使い方だと信じて疑わなかった。

 

でも、今ならほんのちょっとだけあの頃の同級生たちの気持ちがわかる気がする。自転車ではいくら行ってもシャッターばかりの商店街と郊外のショッピングモール、それに付随した馬鹿みたいにでかいゲームセンターと映画館しかないけれど、電車にたった30分乗るだけで、九州で一番華やかな街に着く。

 

セミナーが終わって、ご飯を食べて、僕は少しだけ天神の街を歩いた。馬鹿みたいにでかい書店とブックオフに行った。迷ってしまったので、慌ててGoogleマップを立ち上げて駅まで戻って来た。

 

熊本と福岡は少し不思議な距離感だ。よく考えれば、実家のある久留米と電車で往復するのにも3000円くらいかかる。福岡へ2週間に1度行ったとしても、6000円しかかからない。5月に東京へ行こうと思うんだけど、LCCを違っても往復で25000円かかってしまう。

 

別に用事がなければ行かないけれど、観たい演劇があれば気軽に行っても良い距離かなとだんだん思えるようになってきた。福岡にお住いの方、何かイベントがあれば誘っていただけると嬉しいです。

小説ナタリーみたいなものを作りたい

あまりにもやりたいことが多いけれど、時間の関係でなかなか実行できないことも多いので、とりあえず概要を書いて未来のためのメモにしたいと思う。

 

やりたいことについては、過去にも以下のような記事を書いた。(実現できる目処が立っていない)

atohs.hatenablog.com

atohs.hatenablog.com

 

今回のテーマは「小説ナタリーみたいなものを作りたい」である。

 

 

ナタリーとは何か。

 

ナタリーは株式会社ナターシャが運営するニュースサイトで、「音楽」「コミック」「お笑い」「映画」「ステージ」という5つのジャンルがある。 

元々は音楽ナタリーだけで始まったものだったけれど、徐々に拡大して取り扱う領域を広げ、今ではポップカルチャー好きにとってなくてはならない存在となっている。

様々なメディアがある中で僕はこのナタリーとメディアが大好きで、よく情報収集に使わさてもらっているし、ナタリーの内部について書かれた以下の2冊の本も読んだ。

ナタリーってこうなってたのか (YOUR BOOKS 02)

ナタリーってこうなってたのか (YOUR BOOKS 02)

 

 

新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング (できるビジネス)

新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング (できるビジネス)

 

 

こういうポップカルチャーってそれぞれが独自の色を持っていたり、主観的な記事が掲載されていることが多い。それはそれで、それぞれの色が出ていて面白いんだけど、ナタリーはそうじゃなくてできるだけ幅広いニュースをフラットに伝えているところがとても良い。フラットなはずなのに、それが逆に強烈な個性となっている。

 

どうして小説ナタリーはないのか

そして、これはもうずっと思っているんだけど、ナタリーに「小説」というジャンルがないのが残念で仕方がない。新刊情報とか一元的にしれたら便利なのに、それぞれの出版社が発表するのを待つしかなくて、おかげで出版社のTwitterアカウントを馬鹿みたいにフォローすることになる。

別にナタリーがやる必要はないんだけど、他にも小説に関するニュースをしっかりと配信しているところは少ない。ダ・ヴィンチニュースにそういうカテゴリがあるけど、更新頻度がぜんぜん高くない。

実は、僕が主宰している蓼食う本の虫というサイトでやってみようと思ったこともあった。ただ、一人でやるのにはあまりにも無謀すぎるので、いまはたまにニュース記事を出して様子を見ているところだ。

 

これからどうするか

ナタリーが小説版を作ってくれれば話は早いし、そうなれば僕はもう何もしないのだけど、ナタリーが何もしないうちはチャンスがあるのかなと思っている。

ナタリーみたいなサイトを立ち上げるというのは、実は根性とやり方次第でなんとかなるのではないかと思う。ということはつまり、僕にもそれをやるチャンスがあるのではないかということでもある。

まずは情報を出しているサイトをリサーチして、そこを毎日見て回ること。出版社とか投稿サイトのプレスリリースをつぶさに確認する。あとは有名な作家のTwitterや公式サイトも確認しておく。するとルーチンができる。まあ、このルーチンができるまでが大変だし、できてからもその記事を誰が書くのかということが問題だ。

僕が書いてもいいんだけど、どう考えても一人じゃ挫折するのは目に見えている。だからいまはやらない、ということにしていて、蓼食う本の虫ではほとんどニュース記事を書かず、息の長いコンテンツ制作を行っている。

ただ、もしも蓼食う本の虫がこのまま軌道に乗れば、次に挑戦したいのは小説ナタリー的なものだ。

 

まとめ

という僕の妄想でした。

まだまだナタリーには程遠いけど、蓼食う本の虫も頑張っていくのでどうぞよろしくお願いいたします。

 

非常に残念なことに原稿料は出ないんだけど、寄稿してくれる人は随時募集しています。その代わり、自分で出す同人誌の宣伝なんかも蓼食う本の虫で行えるようにしています。

 

あと、同人誌を出すときや寄稿者を募りたいときは、プレスリリースのようなものを送っていただければ掲載できます!こちらもぜひご利用ください!!



 

「友達」と呼べる人がいない

なんか「友達」という言葉が恥ずかしいし、そういえば最近「この人は友達です!」みたいな紹介の仕方をしなくなったなあと思う。というか、友達と呼べる人がいないのかもしれない。

 

いま、仕事以外で最も顔を合わせているのは一緒に芝居を作っている人たちだと思う。今度やるのはダイナソーミュージアムの公演。もう3回目になる。演出以外は固定的なメンバーを持たないユニットなんだけど、幸福なことに僕は3回ともぜんぶ呼ばれていて、いつも顔を合わせるようなメンバーとやることができている。

その中でも特によく芝居を作る人が3人いて、よくよく考えれば全員後輩なんだけど、4人まとめて「盟友」と呼ばれている。正直、そう呼ばれるのはめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど、なんだか慣れてしまっているところもあって、ちょっと感覚が麻痺してなんならそう呼ばれることが嬉しい瞬間だってある。

でも、「友達」って呼ばれるのは絶対に違うよねという感じ。ぜんぜん芝居に関係のないところで仲良くしているかと言われれば、全然そんなことはない気がしている。ただ同じ芝居を作る仲間なのであり、だからこそ「盟友」なのだと思う。

 

他にも仲良くさせていただいている人はいるのだけど、だいたいそういう人たちはみんな大学の先輩だった人たちだ。そういう1個違いなんだけど、やっぱりそういう人たちはどこまでいっても「先輩」だ。別に「先輩」だからといって「友達」よりも距離が遠いのかというとそんなことはなくて、とても尊敬しているしすごく好きな人たちだ。ただ、「友達」って呼べないよというだけで。

 

という風に考えていくと、本当に僕には友達がいないなあと思う。そんな風に呼び合うのって、ちょっと恥ずかしいけど素敵だと思う。大学時代にあまりにも人と交友関係を結ぶのをさぼっていたらこうなってしまった。中学校や高校くらいまで遡ると、友達と呼べる人たちもいるんだけど。そういえば、ずいぶん会ってないなあ。

 

社会人になってからでも、友達ってできるものなんだろうか。中学生や高校生の頃は、孤独を回避するために友達が必要だった。でも、大人になるにつれて、孤独は恐る必要のないものだとわかるようになってきた。友達が必ずしも必要ではなくなってきた。

そして僕場合は、盟友も先輩もいる。おかげで土日も楽しく暮らすことができている。別に友達なんて必要ない。必要ないから、できそうにもないなあと思う。

 

というわけで、今日の教訓は「大学時代に仲間だけではなく友達も作っておけ」です。春から大学生になる人たちは、よく覚えておくように。

どうして文章を書くのか考えて自己啓発をしてみる

以下の記事を読みまして。

medium.com

 

ここでは、文章を書くモチベーションを確かめるための質問として次の4つが挙げられていた。

 

・ なぜ自分は書くのか

・何をテーマに書くのか

・誰のために書くのか

・書いた文章でどんな変化を生みたいのか

 

文章を書くというのは結構大変なことだ。それなりに時間がかかるし、頭も使わなくちゃならない。僕は文章を書くのが好きだからずっと書き続けているわけだけど、締め切りやノルマを設定してそれに追われていると、「なんでこんな大変な思いをしなくてはならないんだろう?」と考えてしまう。

 

だからこそ、たまに自分の中で文章を書くモチベーションを確認してやる必要があるのだと思う。

 

好きだけど大変、というのは別に文章を書くことに限った話ではない。僕は本を読むのが好きだけど読むのは労力を要するし時間もかかる。そしてあまり時間がとれなくて、本が読めず、「本当に僕は本が好きなのかな?」なんて思ってしまう。習い事でも趣味でもスポーツでも、同じような経験をしたことが誰にでも一度はあるはずだ。

 

普通に生活していれば、「やりたいけど大変なこと」よりも、「別にやりたくもないけど楽なこと」に流れてしまいがちだ。書きたいテーマの原稿があったとしても、延々と関連動画を流し続けるYouTubeに留まり続けてしまう。

 

そんな状況から脱却するためには、やはりモチベーションを高めていく必要がある。言い方を変えれば、これは自己啓発をすることだと思う。

 

僕は自己啓発本というやつが割合に好きで、書店にあると何冊かパラパラとめくってしまう。中身は大抵同じことが書いてある。どれもこれも当たり前のことばかりだ。でも、その当たり前のことができていないのが人間というやつなので、ぼくは定期的に自己啓発をする。

 

そんな自己啓発の一環として、上で引用した問いに対する僕なりの答えを書いてみたい。

 

 

なぜ自分は書くのか

第一には、上にも書いたように「書くのが好き」というのが最も大きな理由だと思う。

子どもの頃から小説を書くのが好きで、小説家になりたいと思っていた。その夢は今でも叶っていないけれど、ずっと小説を書き続けている。

でも、書き続けているうちに、文章って別に小説だけじゃないんだということに気付いた。ブログでも詩でも短歌でも評論でも、文章の世界は驚くくらい無限に広がっていた。

 

創作活動をするときに、自分の守備範囲というものを誰しもが決めると思う。音楽もできなくて絵も描けない僕は、とりあえず文章全般を守ることができるようになろう、と決めたのだった。それこそが、書く理由なのだと思う。

 

そういえば以前、以下のような記事を書いたこともあった。

taskeyu.me

taskeyu.me

 

 

何をテーマに書くのか

このブログのキャッチフレーズは「言葉と文芸とインターネット」だ。

 

大学では日本語日本文学を学んでいたこともあり、そこで学んだようなことが基本的なテーマになっている。

 

また、インターネット文化が大好きなので、そのあたりの話題にもアンテナを張っている。

 

別に運営している「蓼食う本の虫」も文芸系メディアと名乗っているので、これからももっと文芸っぽいことを書いていきたいと思っている。

 

また、関心のある領域を聞かれた場合には「インターネットと文芸の交わるところ」と答えることにしている。

 

 

誰のために書くのか

蓼食う本の虫に限って言えば、明確に「小説を書いている人・書きたいと思っている人」に書いている場合が多い。

 

たまに外れてしまう人にも届けたい記事があるため、「小説を書く人のためのWebメディア」ではなく「文芸系Webメディア」ということにしているのだけど、基本的には僕みたいにアマチュアで小説を書いている人をターゲットにしている。

 

小説なんて一人で書けるし、誰に習うものでもない。でもどうやったらいいかわからないことも多いし、そのほとんどに対して検索してもぴったりの回答が返ってこない。

 

小説の書き方に対して完璧な答えは出せないのだけど、ある程度の解決策を提示することはできるんじゃないかと思っているし、小説の執筆を快適にするためのツールならばいくつも紹介できる。

 

 

書いた文章でどんな変化を生みたいのか

文芸について網羅的に扱っているサイトというのは実はあんまりなくて、特に「書く」ということに関しては個人ブログに書かれたものを頼りにするしかない。

 

けれど、蓼食う本の虫に文芸に関する様々な情報があるとすれば、いくつものサイトを見て回らずに済む。簡単に情報を得ることができて、本来時間を割くべき作品の執筆に集中することができる。

 

他の人が欲している情報を僕が代わりに時間をかけて見つけ出す。そんなイメージを持っている。

 

 

というようなことが、僕の書くモチベーションだ。蓼食う本の虫の声話ばかりして、実はこの個人ブログを書く意味というのをまだあんまり見つけきれていないんだけど、書くのは好きなのでとりあえずそれだけの理由で書いてもいいのかなと思う。

 

これからも頑張って書くので、どうぞよろしくお願いいたします!

学歴コンプレックス本を作りたい

いくつか作りたいなと思っている同人誌があって、その企画の一つに「学歴コンプレックス本」というものがある。

 

学生生活を送るうえで、あるいは就職をするうえで「学歴」を気にしてしまうのは仕方のないことだ。「学歴なんて関係ない!」と声高に言っている人をよく見かけるけれど、そんなことを言わなくちゃいけないこと自体が、多くの人は学歴を気にしているということの証明だ。もちろん、学歴がその人のすべてを決定づけるわけではないけれど。

 

僕は高校に入学した頃から九州大学に入りたいと思っていた。九州に生まれた人なら同じような感覚があると思うんだけど、九大に行くってだけで親戚や中学時代の友人の親とかからは「すごいね〜」と言われる。旧帝大なので「頭いいね〜」と言われるし、国公立なので「親孝行だね〜」とも言われる。

 

そして結論から言うと、僕は九大の文学部に落ちた。全く僕の勉強不足だったと思う。入学した頃から模試での判定はずっとCだった。BにもDにもなったことがなかったと記憶している。そして、本番のセンター試験を使った判定も、やっぱりCだった。

 

今考えてみれば、九大の数学は確率の問題以外ほとんどわからなかったし、英作文もてんで駄目だったのだ。受かると考える方が不自然だったのかもしれない。でもうちの高校はいわゆる自称進学校というやつで、僕の中にはできるだけ偏差値の高い大学に入りたいという欲望があった。だから、C判定にすがって受験した。そして落ちた。

 

という僕みたいな経験をした人が熊本大学には多かったんじゃないかなと思う。理系はよくわからないけど、文系だと熊大が九大に次ぐ大学という地位を獲得していた。だから僕は、迷わず熊大を後期に選択した。センターの判定はAだった。そして、受かった。

 

熊大には九大崩れ(あんまりよくない表現だけど、割と好きなので使います)の人が結構たくさんいた。僕みたいに後期で入ってきた人もいれば、センターの段階でランクを下げた人もいた。中には阪大崩れという人もいた。

 

僕は多分、未だに学歴コンプレックスがある方だと思う。過去のことをとやかく言っても仕方ないのはわかっているし、その点については諦めているんだけど、たまに熊大と九大の偏差値を見比べたりすることがある。卒業して1年経とうとしているのにだ。また、本とかを手に取ると、まずは著者の学歴を確認してしまう。

上にも書いたように、学歴だけがすべてじゃないということは僕だってわかっている。しかし、学歴コンプレックスというのは一種呪いのようなもので、わかっているからと言って消えるものではない。

 

だから、僕は一度この学歴コンプレックスというものをちゃんと言語化してみたいなと思っている。それも僕だけではなくて、しかも熊本大学に行った人だけではなくて、様々な人の学歴コンプレックスについての本を編みたい。

 

いわゆる一流大学に行っても、上には上がいるからと学歴コンプレックスを抱いている人がいるかもしれない。そういう人が、心の柔らかいところから発する言葉を僕はこの目で確かめたいと思う。

 

 

ということを実は在学中から考えているんだけど、他にもやりたいことがたくさんあって、結局何もできないままでいる。でも絶対に面白くなりそうだという予感はするので、学歴コンプレックスをお持ちで何か寄稿してもいいよという方は、ぜひご連絡ください!

 

メールはこちら

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