僕は仕事ができない

熊本でWebディレクターをしています。文芸、演劇、カメラ、インターネットが好きです。

言葉は伝わらない

小説を書いたり、ブログを書いたり、何かしら文章を継続して書き続ける活動をしている方は、一度くらいは「何故伝わらないのか」ということを考えたことがあるのではないかと思います。言葉は誰かに何かを伝えるためにあるはずなのに、どれだけ言葉を重ねても伝わらない、そんなことがあるのではないでしょうか。

今回は、そんな「言葉で伝えること」に関して僕の考えをまとめておこうと思います。こんにちは、あとーす (@ATOHSaaa)です。

 

「言葉」にこめるもの

シニフィエ(記号表現)とシニフィアン(記号内容)という言葉を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。ソシュールによって定義された言語学用語です。

シニフィアンとは、語のもつ感覚的側面のことである。たとえば、海という言葉に関して言えば、「海」という文字や「うみ」という音声のことである。一方、シニフィエとは、このシニフィアンによって意味されたり表されたりする海のイメージや海という概念ないし意味内容のことである。また、表裏一体となったシニフィアンシニフィエとの対のことを、「シーニュ」(signe)すなわち「記号」と呼ぶ。

シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia

 僕らは、あるシニフィエを提示されたとき、それを無意識のうちにシニフィアンに結びつけて、言葉を理解します。こうして、私たちは書かれているものを理解することができるし、誰かに向けて書くことができるのです。(もちろん、音声言語に関しても同じことが言えます)

 

ところが、あるシニフィエに対して常に同じシニフィアンがついてまわるとは限らないわけで。それは通時的に変化するものかもしれないし、共時的に起こっているのかもしれません。

たとえば、「私小説」という言葉の意味を皆さんは説明することができるでしょうか? 少なくとも、何かぼんやりとしたイメージがあるのではないかと思います。具体的な定義を考え始めた人も、具体的な作家や作品名を思い出した人もいるでしょう。ちなみに私は、真っ先に太宰治を思い出しますが、一般的には田山花袋の『蒲団』が私小説が起源だと言われるようですね。

この「私小説」について、鈴木登美はこんなことを言っています。

私小説」という語は、明確にこれと特定できる記号内容をもたない、強力で流動的な記号表現として広く流通し、影響力の大きいひとつの批評表現を生み出した。それは、日本の文学の特質のみならず、日本人の自我観、社会観、伝統観をも記述し、そうすることによって形作った言説である。

鈴木登美著 大内和子・雲和子訳『語られた自己 日本近代の私小説言説』2000年 岩波書店

語られた自己―日本近代の私小説言説

語られた自己―日本近代の私小説言説

 

 

このように、あるシニフィエに対してそれぞれが勝手なイメージを付け加えることがあります。「右翼」とか「左翼」辺りも、シニフィエだけが一人歩きしているイメージですね。

僕もよく、シニフィエだけが一人歩きしている言葉を使います。便利なので。最近だと、「エモい」とか「天才」とか使いますね。あと、「ゆめかわいい」という言葉が最近出てきてて、なんかちょっとまだシニフィアンを掴みかねています。

 

人が何かを書くとき、その言葉には自分のシニフィアンを乗せます。しかし、それを読む相手が自分とシニフィアンを共有しているはずはありません。読む人は読む人のシニフィアンでそのシニフィエを読み解こうとするわけです。だから、言葉で伝えたいことのすべてを伝えようとすること自体が無理なのです。

それでも、僕は僕の思っていることを「言葉」に翻訳し続けます。適切な言葉が見つからないことも多々あるのですが、そういうときも無理やり翻訳することが多いです。というか、この文章もまとまらない考えを無理やり翻訳しているのです。ブログを書くとき、僕は翻訳することを諦めています。もちろん完璧な翻訳なんて無理なのですが、ブログではその精度を少し下げている。それは、ブログをある種実験の場のようにしないと、僕の伝えたいことだけが脳内に膨れ上がって、結局何も残せないままにモヤモヤするからです。だから、僕はブログではなるべく思いついた順に書くことにしています。

話がそれました。さて、僕はアウトプットの段階で言葉を誤訳してしまっているのですが、その誤訳はまたさらに読み手がその言葉を読む段階で誤訳されてしまいます。二重に誤訳されるのです。こんなもの、伝わるはずがありません。

まあでも、だからこそ僕らは言葉を重ねるのかもしれないなと思います。ある一つの事象を説明するのに、たくさんの言葉を使って。そうやって事象の輪郭を言葉で埋め尽くしていけば(途中で的外れな言葉を使ってしまうこともあるけれど)、その正体がもやっと見えてくることがあるんじゃないでしょうか。

 

140字小説を書くとき、僕はたくさんの言葉を削ります。でも、その一言ひとことに僕は僕なりの内容を詰め込みます。たとえば「雪」という言葉一つに、僕の雪に対するイメージを大量に詰め込みます。そういう膨大なイメージを、どうやったら効果的に伝わるかと考えて言葉を並べます。僕の140字小説を読んで僕と同じイメージを共有する人はいないでしょうし、もしかしたらとんでもなく違う方向で想像を膨らませる人もいるかもしれません。

けれど、これは140字小説に限りませんが、僕は誤訳を恐れずに僕の言葉を伝えなければならないと思っています。しかし非常に臆病な面もあり、僕は誰かから言葉を受け取ったとき、それを注意深く翻訳しようとします。誤訳はある程度しょうがないことだと思いますが、その人がそれ以前にどんな発言をしているのか、どんな生活をしているのかといったコンテクストも含めながら、その言葉を翻訳しようとします。だから、僕は誰かの言説に「間違っている」と言うことが最近はできなくなってしまいました。それがその人のリアルならば、そうなんだろなあ、と。

 

まとめ

何が書きたくなったか分からなくなったところで、今回は終わりにしたいと思います。次に記事を書くときは、もう少し練ってきます。(シニフィエシニフィアンについて、大きく誤訳してなければいいなあ)