読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あとーすログ

言葉と文芸とインターネット

青春コンプレックス

2年くらい140字小説というものを書いています。140字小説って何かというと、文字通り140字で書く小説のことなのですが、「140字で小説なんて書けるわけがない!」とか「小説というより詩じゃないか!」と言われることがあります。まあ僕として1つのツイートの中で実行された文芸作品はすべて140字小説と呼ぶくらいの気持ちでいます。何を模造しているのかもはや誰もよくわかっていないのに、「模造紙」と呼んでしまう、そんな感じで、「140字小説」という名前を作って呼び続けることは、それほど悪いことではないように思っています。

 

冒頭から話がそれました。そう、140字小説を書いているんですね。これは前提なんですね。そこで、僕は青春をテーマにした140字小説を書くことがよくあります。そこで描かれる青春はなんというかドロドロしていて、およそ皆さんが「青春」と聞いて思い描くようなきらきらとしたものではないはずなんです。まあ、青春のすべてがあまりにも悲惨すぎて全くきらきらしたイメージを抱けないという方もいると思うのですが、そういう人は『君の名は。』の感じだと思っておいてください。観たことがない人は、とっとと観てください。

 

ドロドロとした青春を書くと、なんだか知らないですけど凄く反応がいいんですよね。ここでいう「反応がいい」というのは、リツイートやいいねが多いということです。他の作品に比べて、圧倒的に反応がいい。それは、僕の140字小説用のTwitterをフォローしている人が、あるいはそれ以外の多くの人たちも、青春にすごいコンプレックスを残してきていることの証明なんじゃないかなと思うんですよね。

 

 

青春小説とか青春漫画ってまやかしがひどすぎて、そういう完全につくりものめいたものも好きなんですけど、あまりにもリアルすぎる青春小説の方がやっぱり僕は好きです。それは、綿矢りさが初期に書いた『インストール』と『蹴りたい背中』が大好きだという告白とほぼ同義です。

 

でも、そういうドロドロとした青春って、とても個人的な経験なんですよ。ぜんぜんポップじゃない。共感も生み出さない。個人的なことを深掘りしていかないといけない。つくりものの青春では見出せないところなのに、でもそういうことを言葉にすると、どうしてだか共感を得てしまう。せっく僕の特異な青春経験を言葉にしたのに、「それ、私もわかります!」と言われてしまう。それって幸福なことなのだろうか。ちょっとよくわからない部分があります。

 

まあ、よく考えたらお弁当を一人で食べたいときとか、別にみんなに共通の経験だと思うんですよね。僕は実際にお弁当の時間というのが死ぬほど嫌いで、みんなが一人でお弁当を食べる世界だったらどんなにいいだろうかと思っていました。確かに、ごはんを誰かと一緒に食べるのは楽しいことだけど、それは毎日でなくてもいい。それなのに、みんな当たり前のようにお弁当を誰かと一緒に食べる。母親とかにも、「今は誰と一緒に誰とお弁当食べてるの?」とか聞かれてしまう。親子二世代で地獄なのかよまじかー、と思って死にたくなってしまったことをよく覚えています。でもたぶん、母親にとっては一緒にお弁当を食べること自体が地獄なのではなくて、一人でお弁当を食べることが地獄だと思っていたんでしょうね。そこに認知の差がある。まあ確かに、僕も一人でお弁当を食べるよりも誰かと食べている方が幾分か地獄感が薄まるので、なんとかお弁当グループにすがっていましたけどね。でも、一人で食べるのがもっと普通だったら、僕は絶対に一人でお弁当を食べていた。という個人的な経験を僕はずっとずっと温めてきたんだけど、これも共感されちゃうんだろうか。

 

青春ってもう何十年も何百年も前から色々な人たちが掘っていて、でもやっぱりそれぞれが生きていた年代が違うからこそ違うものがそれぞれの時代に眠っていて、僕はそこにある1993年生まれの青春に特有の真理みたいなものを見つけたいと思っているんですよね。真理というけれど、それは別に全員に認められる必要はなくて、僕個人の、あるいは僕に似た誰かにとって真理とか真理らしきものであればいいというくらいの話でして。うーん、なんかしどろもどろになってきてしまった。

 

何の話でしたっけね。140字小説と青春の話でしたね。で、たぶん真理らしきものって、ドロドロとした青春コンプレックスの中にあるのではないかと思っていて。楽しいだけの青春とか、嘘なんですよ。あとは、きらきらとした贅沢な悩みばかりの青春も嘘っぱちなんですよ。もちろん、嘘っぱちの青春がほしくなるときもあって、そういうときは何回もいうけれど『君の名は。』を見ればいいんですよね。大好きですよ、新海誠。でも、どう頑張ったところで深海誠の作品は青春コンプレックスに入ってこれないんですよね。嘘っぱちなんですよね。そこで、綿矢りさとかが重要になってくるわけなんですね。

 

青春時代に帰りたいと思うことがよくあります。僕が高校生の頃、ずっと大人になりたくないと思っていました。僕はずっと、高校生のままでいたかったんだと思います。ドロドロとした青春しかなかったのに。きっと、いま生きているよりもつらいことなんてたくさんあったのに。ビールも飲めないし、車にだって乗れないのに。そういうものを捨ててまで、また高校生の頃に戻りたいと思うことがあります。まあ、実際にはどう願っても戻ることはできないので、お酒は飲むしどこまでもドライブしますけども。

 

ただ、いつまでも青春をほじくりまくることはできて、僕はそれをしたいし、できれば嘘っぱちじゃない青春をいじくりまわしたいなと思っています。それは1993年生まれ特有の経験であって、「それ、古いですよ」と言われることもあるかもしれないけれど、でももしかするとそう言われた時が成功したときなのかもしれないですね。あとは、1993年生まれも2016年生まれも、ドロドロとした青春に大して違いはないんだとわかってもらえても、嬉しいかもしれない。やっぱりどこまで言っても、言葉というのは情報の伝達手段なのであって、自分のための言葉でも人に届くと嬉しい。そういうことばかりだと思うんですよね。

 

というわけで、もっと青春コンプレックスを満載にした140字小説を書きたいなーと思っています。