僕は仕事ができない

熊本でWebディレクターをしています。文芸、演劇、カメラ、インターネットが好きです。

ポークパンダ三歳「猿のたけなわ」を観た

 

熊本の続Rude barにて、ポークパンダ三歳実験ライブ「猿のたけなわ」を観た。企画・構成は井上ゴムさん。

ゴムさんが作・演出した演劇は、一度たけ大帝ポペの『虚ろな舟』を観たことがある。振り返ってみると、もうほぼ1年前のことだった。

 

atohs.hatenablog.com

 

今回も、話の内容に触れながら感想を書いていきたいと思う。思い出した順番に書くので、支離滅裂な部分があるのはご勘弁いただきたい。

 


下品さについて


観劇後に色々な人の話を聞いて感じたことなのだけど、あの芝居の下品な部分で好き嫌いが分かれるのだろうなと思った。いわゆる下ネタ的な部分。僕はそういった下品なものも好きだし、人間の性愛に関する話も好きなので、その辺りは気にならなかった。むしろギリギリまで攻めていて面白いなあなどと思ったりした。
ただ、これはこの作品以外にも言えることだけれど、そういったものがただ単純にストリップ的な享楽以上のものになるかどうかというのは、常に点検していなければならないと思った。僕が下品なものが好きだというのは、まさしくストリップ的な享楽によるところがないとはいえない。そしてそういうものが嫌いだという人も、ストリップ的なものに嫌悪感を抱いているはずだ。そういうものを超えて、果たして何を伝えようとしているのかということを考えた。
考えたけれど、単純にそれぞれが弱い人間だよねということを伝えるための道具として性欲があったという捉え方で良いのかもしれない。

というようなことを、ゴムさんも稽古日誌で書いていらっしゃいましたね。

今回のタイトルは
「猿のたけなわ」
といいます。猿は一応「えん」て読んでね。

タイトルから連想できるとは思いますが、
とあるBarを入れ代わり立ち代わり訪れる人々が
(実際のBarを使わせていただきます!)
ひたすら飲んだくれるお話です。
その中で・・・
人間の欲だったり、
浅ましさだったり、
見栄・どーでもいいプライドだったり、
そういったものが見え隠れしたり垂れ流しになるのを
滑稽に滑稽に愛しく描きます。
隣の席の飲み会を傍観するように
ニヤニヤしながら楽しんでいただきたいと思います。

 

ここも好き嫌いが分かれるところだと思うけど、僕は未だに自意識ダダ漏れ人間なので、こういう浅ましい感じがとても好きだ。

 

ピロシ


僕は個人的に、ピロシを演じていた磯田渉という役者がとても好きだ。それは、割とかっこいいのにヘタレっぽくて、週刊少年ジャンプのハーレム漫画の主人公みたいな感じがするからかもしれない。そして今回も、女性二人に誘惑されるという役得ぶりだった。

 

 

「ジゴク」について


さて、この作品について書いていくうえで、「ジゴク」というものに触れないわけにはいかないだろう。

以下、パンフレットから引用。

 

ある日突然地面の底の底から噴き出した
「ジゴク」は
あっという間にクマモトを汚染し
未曽有の大災害を引き起こした


ところが正直なところ、この「ジゴク」という設定は僕には不要であったような気がする。もちろん、そこから出てきた男が新たな登場人物となったり、「ジゴク」に飲み込まれた女が腕を無くして戻って来るというのはある種の不気味さを与えるけれど、そんなことを実現するだけならば他にいくらだって手はある。

安直に結論を出すならば、3年前に出現した「ジゴク」は熊本地震のメタファーだと考えることができるだろう。そう考えたとき、そこに出現した「ジゴク」とは何か。それによって汚染されたクマモトとは一体どういうことか。そしてその街で、どうしてみんな平然と暮らしているのか。なぜジゴクの人々は蟹を食べているのか。

僕はこの作品を見ながら、studio in.K.でロングラン公演中の『ジョン王』のことを思い出していた。『ジョン王』はシェイクスピアの戯曲が原作なのだが、いま上演されている『ジョン王』では、原作には登場しない“語り”という人物が登場する。
この語りは、『ジョン王』の時代とは違う価値観を持った未来人的な役割で描かれる。これは端的にいえば批評的かつツッコミ的な存在だ。ジョン王たちの必死さが、語りの観念によって相対化される。

というような機能をこの「ジゴク」も持っているのではないかということも可能ではないだろうか。「ジゴク」が持つ批評的な意味とは何か。
先ほども書いたが、芝居の途中で男が一人「ジゴク」から飛び出して来る。それに慄く人物もいるが、バーのマスターはそれを当然のことだとして受け取る。そして、そのジゴクから出てきた男は、バーの常連として再登場し、何事もなかったかのように受け入れられてしまう。

このシーンは、あちら側の「ジゴク」とこちら側の世界の差異について問いかけているのかもしれない。そういえば、作品の途中で謎の「X」という物質についての話があった。とある物質Xが水槽の中に入った時、その水槽の水の表面だけがXなのではなく、その水槽の水全体が薄いXであるのだと。そして、それとつながっているバーも、マチも、セカイも、そしてニンゲンも、等しくXになってしまっている。ところで、Xに何を挿入できるだろう?ここに「ジゴク」を挿入することは可能なのではないか?

実際、最後の一本グランプリを模した場面で次々に人々が死んでいく様は「ジゴク」と呼ぶにふさわしかったのではないか。僕たちはあちら側のセカイとしての「ジゴク」を恐るけれど、もしかするとそこに差異などないのではないか。そんなことを考えた。

 

 

クリエイターについて


ここ数年くらいで「クリエイター」という言葉をよく聞くようになった気がする。別に昔から呼ばれてるんだろうけど、その範囲がどんどん広がっている気がする。僕は小説を書くんだけど、小説を書いている人も「クリエイター」と呼ばれているのを聞いたことがある。
ここでいう「クリエイター」というのは、いわゆる職業的な呼び方ではないような気がする。小説を書く人ならば「小説家」と名乗ればいいのに、それは恥ずかしくて名乗れない。でも、「クリエイター」なら、それで食えていなくても名乗っていられる。まあもちろん、食えていて名乗ってもいいんだけど。
そして、この「猿のたけなわ」では、「クリエイター」と呼ぶにふさわしいような人たちが集まっていたように思う。お笑い芸人、ラッパー、同人BL作家…。よくよく考えれば、これだけクリエイターばかりが出て来るのだから、自意識ダダ漏れの作品にならないことの方が難しい。こうなってくると、ピロシの凡庸さがますます際立つ。


本当はもっと考えたいことがあったような気がするのですが、ひとまずここまでで。

また今年の秋に大帝ポペがあるとお聞きしているので、そちらも楽しみにしています…!