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あとーすログ

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又吉直樹の太宰的「何か」を考える

小説

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卒論を太宰治で書くつもりなのですが、全然進みません。完全に怠けていました。一応、前期の「思ひ出」から最晩年の『人間失格』まで続く私小説的、あるいは自伝的な小説の読解にという結構やり尽くされた領域にチャレンジしようとしているのですが、勉強不足も相まって、なかなか方向性を示すことができません。

そこで、考えたことをまとめるために、せっかくブログもあるのだからメモとして書き留めておこうと考えた次第です。

というわけで、本エントリでは「又吉直樹の太宰的「何か」」について思いついて書いていこうと思います。

(ちなみに、さっきまで松本和也氏の『太宰治の自伝的小説を読みひらく 「思ひ出」から『人間失格』まで』(2010年 立教大学出版会)を読んでいたので、ここから考えたことが多くなると思います。)

太宰治の受容

太宰作品がこれまでどう読まれてきたのかということについて、松本氏は以下のように書いています。

 つまり、『人間失格』には、太宰治その人の実在を前提とした上で、小説の作中人物(『人間失格』の場合は大場葉蔵)を太宰治に二重写しにして理解していく認識枠組みを、本書では”太宰神話”と呼ぶことにしたい。
松本和也太宰治の自伝的小説を読みひらく 「思ひ出」から『人間失格』まで』2010年 立教大学出版会)

 もっと言うならば、「太宰治その人」と「小説の作中人物」を二重写しにした上で、読者は「小説の作中人物」と共振する。それがすなわち、「太宰治その人」と共振する、という読まれ方をしているわけです。

現在もこのような読まれ方をしているのか、ということについては検証の余地があると思いますが、そのような読まれ方をしているという共通認識が成り立っているように思いますし、あなたと僕の間でも成り立つと嬉しいです。


そのような読まれ方が端的に現れているのが、映画『人間失格』でしょう。中原中也が登場するなど、明らかに太宰治と大庭葉蔵を「混同」した仕上がりになっています。

こんな感じで、僕は今、太宰作品の受容がどのように行われているのかということが少し気になっています。

例えば、私の知る範囲でも太宰好きを公言している作家は多いように思います。数人挙げるとすれば、森見登美彦氏、綿矢りさ氏、又吉直樹氏などが挙げられるでしょうか。(もちろん、この他にもたくさんいると思うのですが、ちょっとすぐに思いつきませんでした)

太宰治その人」と「小説の作中人物」を二重写しにする読まれ方は、別に最近の流行りでもなんでもなくて、太宰研究の先駆者である亀井勝一郎奥野健男がそういう読み方をしているので、伝統的な読み方ではあるわけです。

研究でいうと、先ほど引用した松本氏の論のように、作品を太宰治その人」から引き離して読もうとする試みもかなりあるようです。

前置きが長くなりましたが、今回はそんな太宰治の受容を考える上で、「又吉直樹の太宰的「何か」」ということで考えたことを書き留めておこうと思います。

 

又吉直樹の太宰的「何か」

僕はtaskey Uで記事を書く関係で、センセーショナルだった第153回芥川賞受賞作品を二作品とも読みました。

そして読み終わった後で、羽田氏の「スクラップ・アンド・ビルド」よりも又吉氏の「火花」の方が太宰的なものを多分に含んでいると感じました。

それはもちろん、又吉氏が太宰好きであるという情報がそう考えさせている可能性も否めません。しかし、それを含めても(あるいは、それ故に)又吉氏が太宰に似ていると感じる点は大きく以下の2点に集約されます。

  1. 作家その人と、作中の人物が二重写しにされやすい
  2. 言葉の正確さに敏感である

作家その人と、作中の人物が二重写しにされやすい

まずは1から。太宰作品の二重写し的読まれ方は先に説明しましたが、又吉氏にも同じようなことが言えるでしょう。

太宰作品における「物語の主体」の主人公は、作家である場合が多いことは明白です。そして、又吉氏の「火花」の主人公もお笑い芸人であり、又吉氏その人と二重写しにされる可能性は高い。事実、又吉氏のバラエティ番組を見ていると、又吉氏その人と作中人物を二重写しと捉えた質問をよく耳にします。

また、又吉氏が「ピース」を結成する前に組んでたコンビの名前が「スパークス」であったことも、この読みを助長しているように思います。

もちろん、純文学的(あるいはリアリズム的)作品は、例えば大衆文学やライトノベルなどと比べれば、作品は作者の延長線上にあると言えるでしょう。これは、たとえば羽田氏の「スクラップ・アンド・ビルド」にも、自身の経験が反映されていることからもある程度真実であると言っていいでしょう(『文藝春秋』の受賞者インタビューにそのような記述があったのですが、手元にないので、引用はできません、すみません)。

ただ、それにしても「職業」の同一性を回路として、太宰その人は太宰作品の人物と、又吉氏その人は又吉作品の人物と、それぞれ強く二重写しにされている現状はあるように思います。

 

言葉の正確さに敏感である

太宰が言葉の正確さに重きを置いていたことについては、先ほども引用させていただいた『太宰治の自伝的小説を読みひらく』の中でも松本氏が指摘していたのですが、太宰は『人間失格』のなかで「所謂」という文言や鍵括弧を多用しています。

この辺りが、又吉氏の「火花」とも通ずるものがあるのではないかと考えています。彼らにはある一定の真実が見えていて、それを言葉で伝えようとするけれど、その言葉がどのように受け取られるかに非常に敏感であると感じます。

又吉氏の小説については、どこがどう「正確さに敏感か」を示すのが難しいのですが…。ただ、羽田さんは言葉の正確さににそれほど敏感ではないのではないかと思いました。それは、別に悪いことではなくて、あくまで羽田氏の小説がそういう構造をしているのだと考えます。

文學界』2015年9月号で、羽田氏と選考委員の島田雅彦氏の対談が掲載されているのですが、その中で島田氏がこんなことを言っています。

「スクラップ・アンド。ビルド」(一五)も「メタモルフォシス」もそうなんですが、羽田さんの小説の主人公は、場面場面でセオリーを前面に押し出してい、それに向けてしゃかりきに努力するという特徴がある。それがハマっているときもあれば、ちぐはぐなときもあって、そこが面白い。「この主人公、天然ボケだろ」と読者に思わせるような、生真面目さとのギャップの魅力が、私は好きです。

(『文學界』2015年9月号「対談 天然ボケのユーモア」p.25)

『スクラップ・アンド・ビルド』の主人公によって語られる言説や思想は硬直的で、それはある面では真実であるのですが、ある面では全くの間違いであるように思われます。それが、「天然ボケ」のように映るというのは納得できますし、大変面白いところでもあります。

それ故に、『スクラップ・アンド・ビルド』に現れる硬直的な思想を盲信することはある種原理主義的だと言えるし、批判する(あるいはツッこむ)余地が多分に用意されているんじゃないかと思います。

一方で、『火花』は書き手が慎重に言葉を選び、正確に書き手(あるいは「物語る主体」)における真実を届けようとしている感覚があるので、批判することが難しいのです。この「批判することが難しい」というのは、ひとつ太宰と又吉氏を繋ぐものになり得るのではないかなと考えています。ただ、もっとしっくりくる表現の方法があると思うので、もう少し考えることが必要ですね…。

 

まとめ

以上、ここのところぼんやりと考えていたことをメモ的に書いてみました。

まだまだ読みが浅いしそもそも「火花」と「スクラップ・アンド・ビルド」の比較が有効でないのも分かってはいるのですが、自分の理解の手立てとして書いてみた次第です。

まだまだ勉強中ですので、何かありましたら、コメント欄によろしくお願いいたします!

 

 

火花

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スクラップ・アンド・ビルド

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太宰治全集 全10巻セット (ちくま文庫)

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