あとーすログ

文芸、演劇、カメラ、インターネットが好きです。

徹夜しても稼げるのはせいぜい8時間

終わらない仕事。迫るリミット。重要度と期限までの残り日数を掛け合わせて優先順位をつけて処理していくが、気がつけば重要度の高い未着手の仕事が残り日数1日になっていたりする。

 

しかし、どこか大丈夫だと思っている自分。大丈夫、徹夜さえすれば終わる…。

 

 

小学生の頃まで、夜には未知の領域がたくさん残されていた。夜更かししてもせいぜい12時まで。それ以降のことは全く何も知らなかった。だから、夜に寝て朝な起きるのはワープみたいだって思っていたし、そんな比喩を使いたくなるのも僕だけではないだろう。

 

そのときの感覚がまだ残っている。

 

しかし、とは言え僕は夜が無限でないことくらい知っている。初めてそれを知ったのは中学生の時だった。

 

僕は美術がとても苦手で、明日までが期限の課題が全く終わっておらずに家へと持ち帰った。苦手なら苦手なりに適当に片付ければ良かったのだが、その適当にやるということの意味が分からないほど美術が苦手だった。よく考えると、今も苦手かもしれない。Webサイトを作ろうとワイヤーフレームを手描きで引こうとして、何も出来ず固まってしまうことがある。

 

その日、他の教科もあった僕は、11時頃から美術の課題を始めた。眠らないようにブラックコーヒーを濃いめにいれて。無限の夜へと出発した。

 

初めは元気だった。BUMP OF CHICKENのアルバムをBGMにして意気揚々と作業をしていた。正直、進捗は芳しくなかった。どうすれば良いか分からないものが、夜更かしを始めたからといって出来るようになるわけがない。それでも、僕には無限の夜があると思っていた。

 

大丈夫かな、と思ったのは3時を過ぎた頃。なんとか糸口は見つけて、あとはひたすら作業をすらだけになっていた。時計の長針は、ゆっくりと4に近づいていく。

 

朝だ。朝になってしまう。そう感じた。異論はあると思うけれど、僕にとっては午前4時から11時半までが朝だ。朝の4時に起きたことはそれまでにも何度かあった。僕はそこで少し身震いした。あれだけ無限に感じられていた夜の短さに。就寝する午前12時から起床する7時までの短さに。

 

終わらないかもしれない、と思ったのはその時だった。これまでは無限の夜のおかげでどんな課題でも途中で眠りさえしなければ終わらせてきた。しかし、それもせいぜい午前1時か2時には終わっていた。午前4時へと刻一刻と向かう中で、このまま課題が終わらないかもしれない恐怖と戦っていた。

 

結論から言えば、その課題は終わった。クオリティはともかくとして、ひとまず終わった。午前6時。僕はそのままベッドに倒れこみ、1時間だけ眠った。

 

23歳になった僕は、大森靖子をBGMにして徹夜を始める。性懲りもなく。もっと早くから始めておけば良かったのに。まだ夜が無限にある感覚があるせいだ。しかし、それと同時に冷めた目で、夜が無限でないことも自覚している。ドキドキしている。僕はちゃんと、何もかもが終わった状態で明日を迎えることができるだろうか。

 

徹夜したって、稼げるのはせいぜい8時間くらいだ。たった1日分の労働時間に過ぎない。しかも、最近は残業をせずに帰るというのが珍しいから、実際は1日の労働時間よりもずっと短い。

 

そんな短い時間に無限を感じていたなんて馬鹿みたいだって今なら分かる。しかもその8時間は、命を削って生み出した8時間だ。眠い目をこすりながらやる作業が効率的なわけはない。徹夜空けもまともに仕事ができない。

 

徹夜は魔法のように思える感覚をまだ引きずっているけれど、そこで稼げるのはわずかな時間だということ、今後は忘れずにいたい。今後はね。

実家は簡単に僕を10kg太らせてしまう

タイトルが全てである。実家で2ヶ月半過ごすうちに10kgも太ってしまった。

 

生まれてこの方ずっとでぶで、痩せている人の気持ちはわからない。しかし、高校生の頃は170cmで体重65kgと、まあ痩せてはいないけれどメタボと呼べるほどではないという体型だった。

 

それが大学を卒業する頃には85kgになり、これはいかんと一念発起して痩せたのだった。その記録は、以下の記事を読んでいただければと思う。

 

atohs.hatenablog.com

 

 

最終的には75kg前後を行ったり来たりしていた。そのうち65kgまでは落とそうと考えていたのだ。

 

ところが、5月のはじめに期間限定で福岡への出向が決定した。その間、久留米にある実家から通うことに。そしたら、戻った。また、85kgだ。

 

正確に言うと、昨日測った時点で84.3kgであった。やばい。メタボ目前である。もしかしたら、もはやメタボかもしれない。

 

なぜ、実家はこれほどまでに僕を太らせてしまうのか。

 

実家が僕を太らせる理由

三食がっつり食べる

熊本で一人暮らしをしていると、割と不規則な食生活になりがちだ。しかし、不規則ながらも食べる量はセーブする方向に向かう。朝食は食べないことが多かったし、昼ごはんも簡単に済ませることが多い。夜は割とたくさん食べるけれど、ビールを飲むようなことはなかった。

 

ところが、実家に帰ると状況は違う。まず朝ごはんが出る。しかもかなりがっつり。そして、うちには高校生の弟がいるので、母親がついでに僕のお弁当も作ってくれていた。そして、夜はその弟と同じくらいの量のご飯を食べる。ちなみに弟はサッカーをしているので、運動している分は食べても構わない。しかも僕は、毎日ビールを飲んでいた。

 

ありがたい話なのである。本当に。何もしなくてもご飯が食べられるし、ビールも飲める。実家は最高なのである。

 

しかし、それが僕を10kgも太らせてしまった。

 

 

三食以外もよく食べる

実家には大量のお菓子をアイスがあり、三食以外にもよく食べた。具体的に言うと、夜ご飯を食べた後に普通にかりんとうや芋けんぴ(僕の大好物だ)を食べたりする。しかも一袋。軽くプラス400kcalだ。

 

休みの日はさらにひどく、おやつにお菓子を食べた上に、夜ご飯の後にアイスを食べたりしていた。太るはずである。

 

 

食費がかからない

さらに、三食の飯もお菓子も、基本的には家においてあるものなので食費がかからないのである。お金がかかるのであれば自分の財布の中身がゴリゴリと削られていくので歯止めも聞くが、何のダメージもないので際限なく食べてしまう。

 

 

今後の対応

どう考えてもこのままでは普通にまずいので、とりあえずダイエット計画を立てている。

 

と言いながら昨日は焼肉をたらふく食べて、しかもお酒も大量に飲んでいるのだけど…。まあ今日からということで。

 

最近は基本的に自炊もしないので、セブンイレブンでいかにカロリーと糖質を抑えながら、満足度の高い食料を調達できるのかということにかかっている。

 

とりあえず今日は、定番のサラダチキンを食べながら、豆腐そうめんというダイエット専用食みたいなものを見つけたので食べてみた。

サラダチキンは価格とカロリーの割に満足度も高いのだけど、豆腐そうめんはちょっともの足りないという感じがした。

 

運動もしなければならないのだが、そのあたりは苦手なのでぼちぼち計画していこうと思う。

 

とりあえず、太ったのと同じ期間の2ヶ月半で元に戻したいなという気持ちがあります…!

社会人になって感謝されなくなったし褒められなくなった

新卒として働き初めて1年と2ヶ月になる。今まで働いていない期間の方が長かったので、自分が働いているという実感がまだふわふわしている部分もある。しかし、着実に仕事の量は増え、それなりに責任も生まれるようになった。ありがたい話である。

 

仕事で最も基礎的な事項といえば、いわゆる「ホウレンソウ」と言われる「報告・連絡・相談」だろう。しかし、僕はこのホウレンソウが上手くできない時期があった。今もしっかりできているのかというと甚だ怪しいのだけど、以前より随分とましになったような気がする。それは、考え方を変えたおかげだ。

 

どのように考えを変えたのか。という話をする前に、僕が抱えていた問題を紐解く必要があるだろう。

 

感謝されないし、褒められない

上にも書いたけれど、僕はホウレンソウが苦手だ。これは、報告・連絡・相談をすると「怒られるかもしれない」と考えてしまうことに起因している。僕は子どもの頃から優等生タイプで、誰かに怒られるということに慣れていなかった。意識的に怒られることから遠ざかる生活をしてきた。僕は大人というものが怖かったし、学校の中で職員室は一番嫌いな場所だった。

 

でも、社会に出ると当然のように年上の大人たちと一緒に仕事をして、ホウレンソウをしなければならない。そして、悪いことを報告すると大抵怒られる。怒られるのが怖くて、ホウレンソウをするタイミングを伺っていたら「なんでもっと早く言わないんだ!」と言われて怒られる。そんなことが何度かあった。

 

でも、別に怒ることは悪いことじゃない。と僕は思っている。ちゃんとできていないことがあったら、それを諭すのが当然だし、部下の行動を修正することが上司としての仕事だろう。

 

そんなことは分かっているのだ。分かっているけれど、何だかもやもやした気持ちを引きずってしまっていた。

 

そして、最近その正体がやっと分かった。

 

社会人になってから、感謝されたり褒められたりする機会がめっきり減ってしまった。

 

ホウレンソウをした時に、怒られる確率というのはまあ多く見積もっても半分程度だ。残り半分は、ある程度問題なく仕事をこなしているので、そのまま受理される。しかし、そのときに感謝されたり褒められたりすることはほとんどない。まあそれもそのはずで、その仕事は頼んだ人であればもっと高いクオリティでできたり、早くできたりするのに、僕を教育するためにわざわざ振っているものが大半だからだ。

 

僕は仕事をする対価として会社から給料をもらっている。でも、仕事のモチベーションって給料からは生まれないよなあとも最近感じる。たとえば終わっていない仕事をすれば残業をする必要があるのだけど、うちの会社はみなし残業制なので、給料のことだけを考えるならば定時に家に帰った方がいい。でも、それをあえて残業してまでこなすというのならば、そこには何か動機が必要だろう。

 

その動機は、たとえば「終わらせないと怒られる」とか「人事考課に影響する」とか、マイナスな要因もあるだろう。でも、「あの人の頼みなら仕方がない」とか「あの人のことを助けてあげたい」とか、そういうポジティブな要因も必要なのだろうと感じている。

 

そして、最も大きな要因として、僕は「感謝されたい」「褒められたい」というものがあるのだと思う。

 

振り返ってみれば、大学時代は何をしても感謝されていたし褒められていたような気がする。学生時代にやっていた活動にはほとんどお金が発生していなくて、たとえば演劇も文芸も、僕と周りの人たちが自発的にやっていたことだ。そこでは、率先して仕事をこなしていると、他の人から感謝されていたし、褒められていた。

 

でも、仕事になるとそもそも給料分の貢献をすることは当たり前になってしまって、「ありがとう」とも「すごいね」とも「やればできるじゃないか」とも言われなくなってしまった。

 

そのことが、僕にじわじわとダメージを与えていたような気がする。

 

考え方を変える

しかし、何が僕にダメージを与えていたのかということに気づいた価値は大きかった。

まず、ホウレンソウをしたときに何も言われたなかった時、それは「褒められている」と捉えることにした。提出したものに問題がなかったのだから、それは喜ぶべきことだ。だから、何も言われなかったときは、心の中で小さくガッツポーズを作っている。そうすることによって、自分の中にプラスの感情を貯めていく。

 

もちろん、ホウレンソウをして怒られて、プラスの感情がガリガリと削られることもある。でもそれに耐えて仕事ができるのは、いつも自分の中にプラスの感情を貯めているからだ。ちゃんと貯金しておかないと、感情の借金だらけで過ごすことになる。

 

また、それから僕がもう一つ実践していることがある。それは、他の人の仕事には必ず感謝をして、できれば褒めるということだ。

 

僕は見習いWebディレクターなので、デザイナーやコーダーの方に仕事を依頼することが多い。彼らはプロフェッショナルとして仕事をしていて、自分のアウトプットには誇りを持って仕事をしている。しかも、こちらの指定したスケジュールに間に合うように、時間を調節して仕事をしてくれる。

 

だから、そのアウトプットにはちゃんと「ありがとうございます」と言うようにしている。給料が会社から払われているから、こちらからはお金を払っているから、という気持ちを無しにして、仕事を遂行してくれたことに対してちゃんと「ありがとうございます」というようにしている。

 

また、素晴らしいクリエイティブが上がったときは、必ず褒めるようにしている。しかも、ちょっとテンション高めに。メールの文面では冷めた対応になってしまうので、面と向かった時に「この前は〇〇ありがとうございました!」というようにしている。

 

デザイナーさんもコーダーさんも「仕事だから当然だよ」と言ってくれるのだけど、その瞬間に笑顔になってくれるので、こちらとしても嬉しくなる。

 

まとめ

仕事をするというのは、お金を貰っている代わりにマイナスの感情を溜め込むということではない、という当たり前のお話。でも、やっぱり自分で仕事をしてみないと気づかないことって多いなあと思った。

 

仕事にプラスの感情をどんどん溜めていきたい。そして恐らく、自分から積極的にプラスの感情を発信すれば、鏡みたいにそれがどんどんと跳ね返ってくるのだろうという確信めいたものもある。

 

なんか道徳の時間みたいになってしまったけど、自分がプラスの感情を増幅させるハブになりたいなあと強く思っている。

熊本の演劇イベント「DENGEKI」をものすごく楽しみにしている話

今年も熊本演劇バトルDENGEKIが開催される。開催日は10月8、9日。

団体募集は6月10日までとなっているので、熊本の演劇イベントに参加したいと思っている方はぜひ公式サイトで確認していただきたい。

dengeki.main.jp

 

今年で6回目を迎えるDENGEKI。過去5回のうち、僕は役者あるいはスタッフとして3回出場している。僕が大学に入学して演劇を始めた頃にはすでに開催されていたので、団体募集の告知が出る度に「今年もやるのかー」と嬉しい気持ちになる。

 

熊本で行われる演劇イベントだが、熊本以外の団体も参加することができる。持ち時間は20分と決して長くはないが、熊本の演劇人や演劇愛好家の方々に自分たちの団体をアピールするいい機会になると思う。僕も去年出場した熊本外から来た劇団の方たちはよく覚えているし、その地に赴く機会があれば、ぜひ公演を見てみたいなとも思っている。

 

地元に根ざした劇団で、これからずっと地元で演劇を続けていきたいという団体であれば、正直DENGEKIというイベントに参加するメリットはあまりないかもしれない。しかし、熊本で今後公演を打っていきたいだとか、そういう想いがあるのならば、ぜひとも熊本に来て暴れまわってほしい。

 

演劇は宿命的にマイナーなものだと、シス・カンパニーの北村明子さんが本に書いていた。本やゲーム、音楽、映画であれば、インターネットと流通網の発達した現代ではおよそどこにいる人でも届けることができる。しかし、演劇には言わずもがな生身の人間が必要だ。これは演劇をやる以上、避けられない運命である。だからこそ、僕は熊本以外の人にこのDENGEKIに参加していただけると非常に嬉しいなと思っている。

 

という僕は別に運営に参加しているわけでもなんでもないのだけど、毎年楽しみにしている演劇イベントなので、今年もたくさんの応募があって面白い演劇をみることができればいいなと思っております!もちろん、熊本にもたくさん面白い芝居をする団体があると思うので、そちらも楽しみ…!

釣りから始まる1日

福岡へ2ヶ月間の出向が始まって2度目の週末がやってきた。先週は熊本に帰って演劇を観たりお手伝いをしていたりしたのだけど、今週はこちらで過ごすつもりだ。

 

福岡の勤務先へは久留米の実家から通っている。久留米市は、福岡市と北九州市に次いで福岡県で3番目に人口が多い市だ。九州に住んでいる人なら「久留米出身です!」と言えばだいたいわかってもらえるんだけど、それ以外のところの人には「福岡県出身です!」ということにしている。

 

久留米に帰ってきてからずっと、弟と釣りに行きたいねという話をしていた。弟は僕と7つ歳が離れていて、今は高校に通っている。熊本で僕が大学生をしている間にいつの間にか釣り好きになっていたようで、暇を見つけてはバス釣りに行っているらしい。

 

僕も子どもの頃は結構釣りが好きで、それは父親の影響が大きかった。父親はルアー釣りはあまりやらず、餌釣りでフナを狙うことが多かった。だから、僕も自ずとフナを釣るのが好きになった。

 

そんな僕と違って、弟は一人でガンガン釣りに行っているようだ。竿やリール、ルアーなど様々な道具が僕と弟の部屋に取り揃えられている。僕はバス釣りをほとんどやったことがないけれど、ずっと興味はあった。

 

土曜日。僕は昼から用事があって、弟も朝10時から部活の練習があるという。また、そもそも僕は8時〜12時指定でAmazonの荷物を受け取る必要があった。しかし釣りには行きたい。そこで、5時出発で2時間だけ釣りをすることにした。父親も休みだということで、親子三人で行くことになった。三人で一緒に釣りにいくなんて、何年ぶりだろうか。弟が釣りに興味がなかった十年くらい前が最後かもしれない。

 

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車を20分ほど走らせて、弟がよく釣りにくるという場所へと来た。今回は車で来たからいいものの、弟はここまで自転車で来るという。体力がない僕には到底マネできない。

 

釣り道具のことはさっぱりわからないため、弟に準備をしてもらう。横で父親も手伝っていた。そういえば、僕も釣り道具の仕込み方とか色々教えてもらったような気がするんだけど、自分で学ぼうという意欲があまりなくて、いつも父親任せにしていたなあ。自分でもできるようになっておけば良かった。反省。

 

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僕も何度か投げさせてもらったけど、全く釣れず。どちらかといえば弟が釣っているのを眺めていた。

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僕はといえば、途中からは写真を撮ることに注力しいてた。海で撮影することはあったんだけど、そういえば池で撮るのは始めてだ。被写体として水は結構面白い。

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ちなみに、ここまでまだ写真に登場していないけど、ちゃんと父親も一緒にいます。釣り具をなおしているかと思えば、あとは弟が釣る姿を眺めていた。

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ちょっとだけ自分で竿を出す父親。

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僕は朝が苦手なので、この時間に写真を撮るということもほとんどない。光が柔らかいので、優しい感じの写真になるんだなあと思った。

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蜘蛛の巣は写真に収めると結構綺麗なんだけど、ぜんぜんピンとが合わなくて苦労した。

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シロツメグサがあったので、サブカル女子のモノマネをした。

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色々な場所からルアーのリリースに挑戦する弟。結局最後まで釣れなかった。釣れなかった上に最後は8千円の釣り竿が折れていて、ちょっとかわいそうだった…。

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この場所で一匹も釣れなかったことはないらしく、弟も大層悔しがっていた。まあ時間も限られていたので、致し方ない部分もあったかと思う。僕が久留米にいる間にまた釣りに行こうという話になった。

 

土曜日に早起きして車に乗って、2時間ちょっとのバスフィッシング。この後、僕にも弟にも父親にもそれぞれの休日があったわけだけど、なんだか1日が非常に長く感じられたような気がする。

 

前の晩に釣りに行こうと言っていたとき、心のどこかで「本当に行くの?」なんて思っていた。だって、四時半に起床して釣りに行って、それから弟は部活に行くなんて正気の沙汰とは思えない。僕ならもっと寝ていたい。ていうか、僕は次の移動の中の電車の中で1時間ほど寝た。

 

けれど、いつもと違うことに挑戦できるというのは楽しいことだなあと思った。そのおかげで、この記事みたいな写真たっぷりのブログを書くことができているわけだし。ていうか、「釣りから始まる1日」っていうタイトルがなんか僕のブログらしくなくて面白いな…。

 

できれば、これからも写真をたくさん使ったブログを書くことができればと思っております(体力と時間があれば)。皆さま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

福岡で何枚かの写真を撮って気づいたこと。

いつもは熊本に住んでいるのだけど、色々とあって2ヶ月間は福岡にいることになった。

 

あまり歩いたことのない街に来ると写真を撮りたくなる。昨日は、一眼レフをわざわざ通勤鞄に忍ばせて、写真を何枚か撮ったりしていた。

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知らない街で写真を撮るのはとてもわくわくする。それほど特別な被写体じゃなくても、とてもドキドキする。せっかくなので、休日はまたたくさん福岡で写真を撮ってみるつもりだ。

 

こうしてみてふと思ったのだけど、僕以外の人にとって、この写真は結構つまらないものなのかもしれない。だって、福岡という場所の特別さは僕だけのものだから。

 

しかし、こうも考えられる。僕がいつも暮らしている熊本の写真も、誰かにとって特別になり得るのでは?

 

今までは見慣れた街並みを写真に収めるなんてことはあまりしなかったけど、熊本の街を撮ってSNSなんかで公開するのも面白いのかなあと思い始めている。

 

写真については色々と勉強しているけれど、本当に色々なところに赴いてたくさん撮ってみるのがいちばん良いんだろうなと感じる。あと、他の人が撮った良い写真にしっかり感動して覚えておくこと。その「良い」には必ず理由があるはずなので、そこを要素分解して自分の写真に落とし込んでいかなければならない。

 

写真をたくさん撮っていると、なんとなく良い構図というのがつかめてくる。ちょうど良いシャッタースピードや絞りも分かってくる。ISO感度はこれ以上上げるとやばいな、みたいなこともわかる。

 

僕が撮る写真は、8割方失敗する。なかなか良い写真じゃないかと思ってたやつが、10枚連続でピントがあってないみたいなことがざらにある。

 

 でも、そうやって失敗を重ねながら、自分の中で納得できらものを、出していければ良いかなと思っている。

 

いつもとは違う場所で過ごしてみると、考えることが変わって非常に良い。写真以外にも、福岡で色々と試してみたいなという所存です。

人生の無意味さについて

千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』という本がとても良かった。ページを繰る手が止まらない本に出会ったのは久しぶりのことだった。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

この本の中では、勉強をするために「言語偏重」になることを勧め、「勉強とは何をすることかと言えば、それは、別のノリへの引っ越しである」と言います。

つまり、あるノリの最中にいる自分を相対化して、別のノリに移行する必要がある。その中で重要なのが「ツッコミ=アイロニー」「ボケ=ユーモア」という概念だ。

本書の筋からは恐らく脱線してしまうのだけど、僕はこの中で「ツッコミ=アイロニー(以下、アイロニー)」に興味を抱いた。

 

なぜなぜ病の克服

アイロニーというのは、「コードを疑って批判すること」と本書では定義されています。さらに「コード」の定義まで遡ると、次のように書いてある。

 

環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向付け」である。それを、環境の「コード」と呼ぶことにする。

つまり、アイロニーというのは、その場にある前提を批判することである、と僕は解釈している。僕たちは物事を批評したり議論したりするときに、何らかの足場を持っている。その足場を疑ってしまえば、前提が揺らいで、何もできなくなってしまう(というようなことを、そういえば国語の授業の評論で読んだことがあるような気がする)。

「超コード化」とか「脱コード化」の意味についての厳密な議論については本書を読んでいたくことにするとして(ちなみに、「キモい」というのもこの本の中で語られる概念である)、これってつまり「なぜなぜ病」みたいなものではないかととりあえず理解している。

 

ここからは僕のアレンジが介入するので、『勉強の哲学』をは切り離して考えていただいても構わない。

「アイロニー」は前提を疑うことだ、と書いた。よく言われることだと、例えば「殺人は悪いことです」と言う。これに対して幼児は、「なぜ殺人は悪いことなんですか?」と聞く。すると僕らは答えに窮してしまうわけだけど、ひとまず「悲しむ人がいるからです」ということになる。すると、幼児はまた「なぜ悲しむ人がいると人を殺したらいけないんですか?」となる。それに対しては、「あなたも悲しいのは嫌でしょう?人の嫌がることはしてはいけません」という答えに辿り着くかもしれない。それに対して幼児は、「なぜ人の嫌がることはしてはいけないんですか?」と聞いてくるだろう。こうして、不条理な質問は繰り返されていき、終わりを迎えることはない。

 

ところで、これは僕が昔よく考えていて、おそらく皆さんも考えていたことだと思うんだけど、この「なぜなぜ病」を「人生に意味はあるんですか?」という問いに当てはめてみる。すると、割と簡単に「人生に意味など無い」という結論に辿り着く。「人生の意味」というものについて、僕たちはまず手始めに自分以外の存在に求めるだろう。「人類の発展に寄与するため」とか、「好きなあの子を幸せにするため」とか。しかし、突き詰めて「人類の発展に寄与する」ことや「好きなあの子の幸せにする」ことに意味があるのかと考えることにする。ここでも、まあいくつかの意味を生み出すことができるだろう。しかし、この問いをどんどんと繰り返していけば、やがてその問いが拡散していく。そうして、きっと人生は無意味であることに気付くはずだ。

 

僕は哲学を誠実に勉強したことがないのだけど、Wikipediaの「人生の意義」というページを見ると(便利なページがあるものだ)、「ニヒリズム」というものに該当するのかもしれない。以下、「ニヒリズム」の項より引用する。

ニヒリズムは、人生には意味はない、と示唆・主張する。簡潔に言うと、ニヒリズムというのは「最も高い価値があるものを無価値にしてしまう」過程と言える。だからニヒリズムでは「“人生の意味”などというものはない」と考えることになる。

ここで強く主張したいのは、僕は別に人生に意味がないということに悲観しているというわけではないということだ。人生に意味がないから死んでしまおうと考えてしまおうと考えているわけではないし、自暴自棄にもなっているわけではない。ただ、「人生は無意味だ」という認識から自分の生きる意味を仮構する必要があるのではないかと考ええているのだ。

 

生きる意味を作り出すゲーム

この「人生の意義」というページを見ていると、「人生の意義」に対して様々なアプローチが取られていることに驚く。彼らは、「人生の意義」を考えることを「人生の意義」にしていたのではないか。僕はそう考える。彼らは、「人生の意義を考える」というゲームを楽しんでいたのだ。

僕が「人生は無意味である」と言っていることに対して、「こういう風に生きる意味がある」というのは自由だ。そしてそれは、そう悪いことではない。ただし、それはゆくゆくは不幸をもたらすのではないかと考えている。人生の意味をある点で一つに定めてしまうと、その意味が失われてしまったときに、また「生きるとは何だろう」という問いにぶつかってしまうことになる。

 

そうであるならば、僕らはもっと積極的に「人生は無意味である」ということを受け入れて、生きる意味を作り出すゲームにしてしまう必要があると思う。もちろん、「生きる意味を作り出すゲーム に何の意味があるんですか?」という問いに対しては「意味はありません」と答えるしかないのだけど、そんなことはすでにわかっていることだ。人生は無意味だという前提の上に、僕らは人生を意味づけしてみるというゲームをしている。その事実が、何よりも頼もしく感じられる。

 

まとめ

色々と書いたけれど、要するに「人生は究極的には無意味だけど、それは決して悲観的な事実ではない」ということを書きたかった。

「人生は究極的に無意味だ」ということを僕は何度か人に言ったことがあるんだけど、大抵「どうしてそんなこと言うの?」「そんなことないよ!」「私は、生きる意味を探すために生きているのだと思います」というポジティブの暴力にさらされてきた。僕は決して悲観しているわけではないのに(「生きる意味を探すために生きる」というのは、深刻な文脈でなければかなりゲーム的な気はするけれど)。

 

まあ僕のことはどうでもいいので、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』はとても面白い本だったので皆さん読めば良いと思います!

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために