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あとーすログ

熊本でWebディレクターをしています。文芸、演劇、カメラ、インターネットが好きです。

釣りから始まる1日

福岡へ2ヶ月間の出向が始まって2度目の週末がやってきた。先週は熊本に帰って演劇を観たりお手伝いをしていたりしたのだけど、今週はこちらで過ごすつもりだ。

 

福岡の勤務先へは久留米の実家から通っている。久留米市は、福岡市と北九州市に次いで福岡県で3番目に人口が多い市だ。九州に住んでいる人なら「久留米出身です!」と言えばだいたいわかってもらえるんだけど、それ以外のところの人には「福岡県出身です!」ということにしている。

 

久留米に帰ってきてからずっと、弟と釣りに行きたいねという話をしていた。弟は僕と7つ歳が離れていて、今は高校に通っている。熊本で僕が大学生をしている間にいつの間にか釣り好きになっていたようで、暇を見つけてはバス釣りに行っているらしい。

 

僕も子どもの頃は結構釣りが好きで、それは父親の影響が大きかった。父親はルアー釣りはあまりやらず、餌釣りでフナを狙うことが多かった。だから、僕も自ずとフナを釣るのが好きになった。

 

そんな僕と違って、弟は一人でガンガン釣りに行っているようだ。竿やリール、ルアーなど様々な道具が僕と弟の部屋に取り揃えられている。僕はバス釣りをほとんどやったことがないけれど、ずっと興味はあった。

 

土曜日。僕は昼から用事があって、弟も朝10時から部活の練習があるという。また、そもそも僕は8時〜12時指定でAmazonの荷物を受け取る必要があった。しかし釣りには行きたい。そこで、5時出発で2時間だけ釣りをすることにした。父親も休みだということで、親子三人で行くことになった。三人で一緒に釣りにいくなんて、何年ぶりだろうか。弟が釣りに興味がなかった十年くらい前が最後かもしれない。

 

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車を20分ほど走らせて、弟がよく釣りにくるという場所へと来た。今回は車で来たからいいものの、弟はここまで自転車で来るという。体力がない僕には到底マネできない。

 

釣り道具のことはさっぱりわからないため、弟に準備をしてもらう。横で父親も手伝っていた。そういえば、僕も釣り道具の仕込み方とか色々教えてもらったような気がするんだけど、自分で学ぼうという意欲があまりなくて、いつも父親任せにしていたなあ。自分でもできるようになっておけば良かった。反省。

 

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僕も何度か投げさせてもらったけど、全く釣れず。どちらかといえば弟が釣っているのを眺めていた。

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僕はといえば、途中からは写真を撮ることに注力しいてた。海で撮影することはあったんだけど、そういえば池で撮るのは始めてだ。被写体として水は結構面白い。

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ちなみに、ここまでまだ写真に登場していないけど、ちゃんと父親も一緒にいます。釣り具をなおしているかと思えば、あとは弟が釣る姿を眺めていた。

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ちょっとだけ自分で竿を出す父親。

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僕は朝が苦手なので、この時間に写真を撮るということもほとんどない。光が柔らかいので、優しい感じの写真になるんだなあと思った。

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蜘蛛の巣は写真に収めると結構綺麗なんだけど、ぜんぜんピンとが合わなくて苦労した。

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シロツメグサがあったので、サブカル女子のモノマネをした。

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色々な場所からルアーのリリースに挑戦する弟。結局最後まで釣れなかった。釣れなかった上に最後は8千円の釣り竿が折れていて、ちょっとかわいそうだった…。

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この場所で一匹も釣れなかったことはないらしく、弟も大層悔しがっていた。まあ時間も限られていたので、致し方ない部分もあったかと思う。僕が久留米にいる間にまた釣りに行こうという話になった。

 

土曜日に早起きして車に乗って、2時間ちょっとのバスフィッシング。この後、僕にも弟にも父親にもそれぞれの休日があったわけだけど、なんだか1日が非常に長く感じられたような気がする。

 

前の晩に釣りに行こうと言っていたとき、心のどこかで「本当に行くの?」なんて思っていた。だって、四時半に起床して釣りに行って、それから弟は部活に行くなんて正気の沙汰とは思えない。僕ならもっと寝ていたい。ていうか、僕は次の移動の中の電車の中で1時間ほど寝た。

 

けれど、いつもと違うことに挑戦できるというのは楽しいことだなあと思った。そのおかげで、この記事みたいな写真たっぷりのブログを書くことができているわけだし。ていうか、「釣りから始まる1日」っていうタイトルがなんか僕のブログらしくなくて面白いな…。

 

できれば、これからも写真をたくさん使ったブログを書くことができればと思っております(体力と時間があれば)。皆さま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

福岡で何枚かの写真を撮って気づいたこと。

いつもは熊本に住んでいるのだけど、色々とあって2ヶ月間は福岡にいることになった。

 

あまり歩いたことのない街に来ると写真を撮りたくなる。昨日は、一眼レフをわざわざ通勤鞄に忍ばせて、写真を何枚か撮ったりしていた。

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知らない街で写真を撮るのはとてもわくわくする。それほど特別な被写体じゃなくても、とてもドキドキする。せっかくなので、休日はまたたくさん福岡で写真を撮ってみるつもりだ。

 

こうしてみてふと思ったのだけど、僕以外の人にとって、この写真は結構つまらないものなのかもしれない。だって、福岡という場所の特別さは僕だけのものだから。

 

しかし、こうも考えられる。僕がいつも暮らしている熊本の写真も、誰かにとって特別になり得るのでは?

 

今までは見慣れた街並みを写真に収めるなんてことはあまりしなかったけど、熊本の街を撮ってSNSなんかで公開するのも面白いのかなあと思い始めている。

 

写真については色々と勉強しているけれど、本当に色々なところに赴いてたくさん撮ってみるのがいちばん良いんだろうなと感じる。あと、他の人が撮った良い写真にしっかり感動して覚えておくこと。その「良い」には必ず理由があるはずなので、そこを要素分解して自分の写真に落とし込んでいかなければならない。

 

写真をたくさん撮っていると、なんとなく良い構図というのがつかめてくる。ちょうど良いシャッタースピードや絞りも分かってくる。ISO感度はこれ以上上げるとやばいな、みたいなこともわかる。

 

僕が撮る写真は、8割方失敗する。なかなか良い写真じゃないかと思ってたやつが、10枚連続でピントがあってないみたいなことがざらにある。

 

 でも、そうやって失敗を重ねながら、自分の中で納得できらものを、出していければ良いかなと思っている。

 

いつもとは違う場所で過ごしてみると、考えることが変わって非常に良い。写真以外にも、福岡で色々と試してみたいなという所存です。

人生の無意味さについて

千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』という本がとても良かった。ページを繰る手が止まらない本に出会ったのは久しぶりのことだった。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

この本の中では、勉強をするために「言語偏重」になることを勧め、「勉強とは何をすることかと言えば、それは、別のノリへの引っ越しである」と言います。

つまり、あるノリの最中にいる自分を相対化して、別のノリに移行する必要がある。その中で重要なのが「ツッコミ=アイロニー」「ボケ=ユーモア」という概念だ。

本書の筋からは恐らく脱線してしまうのだけど、僕はこの中で「ツッコミ=アイロニー(以下、アイロニー)」に興味を抱いた。

 

なぜなぜ病の克服

アイロニーというのは、「コードを疑って批判すること」と本書では定義されています。さらに「コード」の定義まで遡ると、次のように書いてある。

 

環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向付け」である。それを、環境の「コード」と呼ぶことにする。

つまり、アイロニーというのは、その場にある前提を批判することである、と僕は解釈している。僕たちは物事を批評したり議論したりするときに、何らかの足場を持っている。その足場を疑ってしまえば、前提が揺らいで、何もできなくなってしまう(というようなことを、そういえば国語の授業の評論で読んだことがあるような気がする)。

「超コード化」とか「脱コード化」の意味についての厳密な議論については本書を読んでいたくことにするとして(ちなみに、「キモい」というのもこの本の中で語られる概念である)、これってつまり「なぜなぜ病」みたいなものではないかととりあえず理解している。

 

ここからは僕のアレンジが介入するので、『勉強の哲学』をは切り離して考えていただいても構わない。

「アイロニー」は前提を疑うことだ、と書いた。よく言われることだと、例えば「殺人は悪いことです」と言う。これに対して幼児は、「なぜ殺人は悪いことなんですか?」と聞く。すると僕らは答えに窮してしまうわけだけど、ひとまず「悲しむ人がいるからです」ということになる。すると、幼児はまた「なぜ悲しむ人がいると人を殺したらいけないんですか?」となる。それに対しては、「あなたも悲しいのは嫌でしょう?人の嫌がることはしてはいけません」という答えに辿り着くかもしれない。それに対して幼児は、「なぜ人の嫌がることはしてはいけないんですか?」と聞いてくるだろう。こうして、不条理な質問は繰り返されていき、終わりを迎えることはない。

 

ところで、これは僕が昔よく考えていて、おそらく皆さんも考えていたことだと思うんだけど、この「なぜなぜ病」を「人生に意味はあるんですか?」という問いに当てはめてみる。すると、割と簡単に「人生に意味など無い」という結論に辿り着く。「人生の意味」というものについて、僕たちはまず手始めに自分以外の存在に求めるだろう。「人類の発展に寄与するため」とか、「好きなあの子を幸せにするため」とか。しかし、突き詰めて「人類の発展に寄与する」ことや「好きなあの子の幸せにする」ことに意味があるのかと考えることにする。ここでも、まあいくつかの意味を生み出すことができるだろう。しかし、この問いをどんどんと繰り返していけば、やがてその問いが拡散していく。そうして、きっと人生は無意味であることに気付くはずだ。

 

僕は哲学を誠実に勉強したことがないのだけど、Wikipediaの「人生の意義」というページを見ると(便利なページがあるものだ)、「ニヒリズム」というものに該当するのかもしれない。以下、「ニヒリズム」の項より引用する。

ニヒリズムは、人生には意味はない、と示唆・主張する。簡潔に言うと、ニヒリズムというのは「最も高い価値があるものを無価値にしてしまう」過程と言える。だからニヒリズムでは「“人生の意味”などというものはない」と考えることになる。

ここで強く主張したいのは、僕は別に人生に意味がないということに悲観しているというわけではないということだ。人生に意味がないから死んでしまおうと考えてしまおうと考えているわけではないし、自暴自棄にもなっているわけではない。ただ、「人生は無意味だ」という認識から自分の生きる意味を仮構する必要があるのではないかと考ええているのだ。

 

生きる意味を作り出すゲーム

この「人生の意義」というページを見ていると、「人生の意義」に対して様々なアプローチが取られていることに驚く。彼らは、「人生の意義」を考えることを「人生の意義」にしていたのではないか。僕はそう考える。彼らは、「人生の意義を考える」というゲームを楽しんでいたのだ。

僕が「人生は無意味である」と言っていることに対して、「こういう風に生きる意味がある」というのは自由だ。そしてそれは、そう悪いことではない。ただし、それはゆくゆくは不幸をもたらすのではないかと考えている。人生の意味をある点で一つに定めてしまうと、その意味が失われてしまったときに、また「生きるとは何だろう」という問いにぶつかってしまうことになる。

 

そうであるならば、僕らはもっと積極的に「人生は無意味である」ということを受け入れて、生きる意味を作り出すゲームにしてしまう必要があると思う。もちろん、「生きる意味を作り出すゲーム に何の意味があるんですか?」という問いに対しては「意味はありません」と答えるしかないのだけど、そんなことはすでにわかっていることだ。人生は無意味だという前提の上に、僕らは人生を意味づけしてみるというゲームをしている。その事実が、何よりも頼もしく感じられる。

 

まとめ

色々と書いたけれど、要するに「人生は究極的には無意味だけど、それは決して悲観的な事実ではない」ということを書きたかった。

「人生は究極的に無意味だ」ということを僕は何度か人に言ったことがあるんだけど、大抵「どうしてそんなこと言うの?」「そんなことないよ!」「私は、生きる意味を探すために生きているのだと思います」というポジティブの暴力にさらされてきた。僕は決して悲観しているわけではないのに(「生きる意味を探すために生きる」というのは、深刻な文脈でなければかなりゲーム的な気はするけれど)。

 

まあ僕のことはどうでもいいので、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』はとても面白い本だったので皆さん読めば良いと思います!

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

文芸部誌甲子園のようなものをやりたい

大学の文芸部ってあまりにも目標がなさすぎない?

ということをずっと考えている。

 

運動部であれば、地域や全国のリーグがあって、その中で優勝を目指したり上のリーグへの昇格を目指して頑張ることができます。

 

また、文化系にしても吹奏楽やオーケストラなんかの音楽系は大会や発表会がある。

目標があれば、そこに向かっ頑張ることができます。リーグ昇格を果たすため、ライバル校に勝つため、部員たちは日々努力を続けます。

 

でも、文芸部って何のために頑張ればいいんだろう。そんなことをふと考えた。別に文芸なんて基本的には一人でできるわけで、大学で文芸部を作って活動することにどれほどの意味があるのか。

 

高校までだったら、課外活動の一環としてそれなりの意味があるように思う。高文祭なんかで賞を用意して、そこを目指して頑張ってもらうということの意味も分かる。

 

でも、大学生になったらもう学生専用の文学賞なんてものはほとんどなくて、他の小説家の人たちと新人賞レースで戦わなければならなくなる。そうであれば、大学の文芸部なんて必要ないんじゃないか。

 

もちろん、僕はコミュニティとしての文芸部に魅力を感じていないわけではない。大学生の頃は公式ではないが学内の文芸サークルに入っていたし、そこで様々な人と出会い、様々な意見を交換することができたのは非常に有意義なことであった。

 

でも、やっぱりそれだけなのだ。僕が入っていたところもそうだったけど、文芸部というのは年に数回部誌を出すということが目標となってしまう。発行してしまえばそれで終わり。これだったら、Web上に小説を投稿するのと何ら変わりないのではないか…?ということを考えることもしばしばだった。もちろん、そうであってはならないと僕は考えている。せっかく部誌を出すのであれば、一人では実現できないことをやりたい。

 

ということをモヤモヤと考えながら、一つの構想が浮かんだ。

 

部誌を作る技術を競えばいいのではないか?

 

部誌というのは、文芸部としてのアウトプットとしてはほとんど唯一のものだ。その制作に部員たちは全力を注いでいるはずである。小説を書きたいのであれば、一人で書いてWebにアップするなり印刷所に持ち込んで刷るなり新人賞に応募するなりすれば良い。ただ、全員でアイディアを出して一冊の部誌を作ることは、誰かと一緒でなければできないことだ。

 

そのクオリティを競うことは、これからも文芸に携わる上での技術力向上につながるのではないだろうか。そしてそれが、文芸部に参加することの意味になるのではないだろうか。

 

文芸部誌甲子園のようなもの

出版甲子園というものがある。

http://spk.picaso.jp/

出版甲子園は、学生の、学生による、学生のための出版企画コンペティションです。

応募資格は、『学生』であること。

参加企画は、厳正な審査と、決勝大会におけるプレゼンバトルで競い合います。

そして出版甲子園を通して編集者の目に止まった企画はついに出版へと向かう。

要するに、こうしたものの文芸部誌版を作ることができれば非常に面白いのではないかと思う。

 

部誌のクオリティというのは、寄稿されている作品だけで決まるものではない。まず最初にどのような企画で原稿を集めるのかというのが大切だし、そこから編集を経て、表紙デザインも本文の組版も、こだわろうと思えばどこまでもこだわることができる。

 

そのように、寄稿されている作品以外の観点からも部誌を評価できる大会のようなものがあれば良いなあと考えている。

 

まとめ

個人的には、文フリとかの同人誌即売会で部誌をめちゃくちゃ売るとかが目標でもいいと思っている。ただ、そういう場合でもこういう大会があれば(そしてその大会にちゃんと権威付けが為されれば)、販促としての効果も期待できると思う。

将来は作家や編集者として食べて行きたいという学生たちが総合力で競うような舞台になれればと思うんだけど、どうですかね?

Twitterのbotアイコンをココナラを使って500円で作ってもらった

もう5年ほど、Twitterのbotを作ることを趣味としている。

とはいえ、僕がプログラミングできるというわけでもないので、Twittbotというサービスを利用して作っている。ツイートしたい文言と時間の感覚を指定すれば、あとは勝手に投稿してくれる。他のところからデータを引っ張ってきて加工する、みたいな高度なことはできないのだけど、淡々と情報を流していくbotが作りたかっただけなので、特に不満はない。

 

フォロワーが数百人しかいないものから数万人規模にまで成長したものまで様々あるのだが、特にフォロワーが多いbotとして「物書きのための語彙bot」というものがある。 

主に小説を書く人たちに対して、特徴的な単語を紹介しているbotだ。

 

このbotのアイコンだが、以前は以下のような画像を使っていた。

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知人に鉛筆で描いてもらったイラストをスキャンして取り込み、僕がWindowsのペイントツールで塗っただけというお粗末なもの。

これはこれで愛着が湧いていたんだけど、せっかくフォロワーも多くなったし、もう少しクオリティの高いアイコンにしたいなと常々思っていた。

ところが、友人で絵を描くのを趣味としている人は何かと忙しそうだし、自分で描くにはあまりにスキルが足りない。

 

どうしようかなと悩んでいたところで、ココナラ というサービスを思い出した。

 

ココナラとは個人がスキルを売買できるサービスで、僕も以前、数の奴隷というブログの絡みであなたの気になるものを何でも数えますというサービスを出品したことがある。ちなみに、一件も売れなかった。

 

色々なサービスが出品されているのだが、その中でもイラスト系は結構な量な出品がある。価格もピンからキリまで様々。最低出品価格の500円から3000円以上するものまである。

出品者もプロではない方がほとんどだが、Twitterのアイコンを描いてもらうならば問題のないクオリティだし、自分で描いたりいつも描いてもらっている知人に頼んだり、新しく描いてもらう人を探すくらいならば、少しお金がかかっても労力を削減できるのであれば良いのではないかという結論に至った。

 

今回、ココナラで発注する人を選ぶために考えていたことは以下の通り

・予算は500〜1000円

・あまり素人っぽい感じが出ていない

・過去に取引実績がある

 

ココナラを使っての依頼が初めてということもあり、予算は低めに設定した。

また、デフォルメイラストなどでもいいので、あまり素人っぽい感じが出ていない人に頼むことを指標とした。最終的には、自分の好みの絵柄かというところも大きく影響するんだけど…。

過去に取引実績があるかどうかも見ていたけれど、気に入った絵柄であれば恐らくまだ取引がなくてもお願いしていたと思う。

 

そんな中で見つけた出品者が、なるこけっこーさんだった。

 

coconala.com

 

いくつか出品されているが、こちらはなんと1枚500円で描いてもらうことができる。

線画を確認した後に着色という流れで、描き直し・訂正も2回までは無料で行ってもらうことができる。

 

僕の場合は、特に線画にも着色にも問題がなかったため、1回目で納品をしてもらった。

1週間もかからずにアイコンを描いていただけたので、非常に満足している。

で、描いてもらったアイコンがこちら。

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まとめ

Twitterアカウントを運用するにあたって、アイコンは割と大切な要素だ。

自分でイラストを描ける場合は対応できるだろうが、そうではないという人も多いだろう。

そんなときは、、ココナラ で描いてもらうのも良いと思う。

僕も他に運用しているbotがまだいくつかあるし、これからも作ろうと思っているので、またお願いしようと思っている。

物書きのためのプロフィールサイトを作りたい

物書きのためのプロフィールサイトを作りたいな、と仕事をしているときに考えたので、今のところ考えていることをばばっとまとめておきたいと思う。

 

 

作りたいと思ったきっかけ

wantedlyとか見てて、ビジネスプロフィールみたいな形で物書きプロフィールみたいなものをまとめられると面白いかなあと思ったのがきっかだった。名刺代わりみたいな。ある程度はTwitterでいいと思うんだけど、何せプロフィールに詰め込める情報が少なすぎる。じゃあ小説投稿サイトのプロフィール欄に書けばいいのかなあと思ったんだけど、どこのサイトもさほどプロフィールに力を入れていなかった。

やる気のある人だったら、WixとかJimdo、あるいはtumblr、WordPressなんかを使ってポートフォリオサイトを作るんだろうけど、そこまでして作るのも面倒くさい。

という感じなので、ちょうどいいプロフィール作成サービスがあればいいなあと思っている。

 

必要な項目

プロフィールには、以下のような情報が記載されていればいいかなと思う。

  • ペンネーム
  • ID(TwitterのIDみたいなやつ)
  • 生年月日
  • 性別
  • プロフィール概略
  • 書くもの(小説、ライトノベル、詩、俳句、短歌、評論、とかから自分が書くものを選んでタグ付けする)
  • 受賞歴(落選歴も含める感じ)
  • 投稿小説へのリンク
  • SNSアカウント(Twitter、Facebook)
  • 作成した・参加した同人誌の情報(書影含む)

特に重要なのは「受賞歴」と「投稿小説へのリンク」。

「受賞歴」については、個人的知りたいという気持ちがある。落選歴も含めたいなあと思うのは、僕がその人の筆力を客観的に知るためのある程度の指標にしているから。

「投稿小説へのリンク」は、様々な投稿サイトや自分のブログなんかに作品が散乱していても、一元管理できるから便利かなと考えている。この辺りは、ちょっとアルファポリスと似ているところがあるかもしれない。

 

付け加えたい機能

基本的には、上に挙げたものを記載することができればいいと考えている。あとはTwitterなりブログなりにURLを貼り付けて飛んでもらうという感じ。

ただ、これだけだとあまり味気ないかなという気もするので、以下のような機能を付けたい。

検索機能

これは基本だけど、サービス内で任意のキーワードで検索するような機能を付けたい。「書くもの」のタグでフィルタリングできる機能もつけたい。受賞歴とか落選歴で検索できるのも良いと思う。

小説投稿機能

最終的には小説投稿機能もあった方が便利だと思う。プロフィールと作品を一元管理できるようにしたい。ただ、普通に小説サイトをやってももはや流行る気がしないので、最初にプロフィールサイトとして始めた後に、投稿機能もくっつけたい。

 

まとめ

なんか書いてみるとぜんぜん大したものじゃないような気がしてきた。

でも、こういうのがあれば同人誌とか作るときに面白そうな書き手を見つけるのにすごく便利だなあとか思う。「寄稿したいです!」みたいなステータスを表示する機能をつけてもいいかもしれない。

というのを、自分の勉強がてら作れたらいいなあと思うけど、だいぶ先の話になりそうだ。

社会人として演劇をするために考えておきたいこと

奇特なことに、社会人になって忙しいのに演劇をやっている人がたくさんいる。僕もその一人だ。この記事は、社会人から演劇を初めてみたい、あるいは学生時代にやっていた演劇をこれからも続けたいという人に向けて書かれている。

 

 

これから演劇を始めたいと思っている人へ

まずは、社会人になって新しい挑戦をしようと思い、なぜか演劇という道を選び取りそうになってしまっている人へのアドバイスだ。

恐らく、あなたは「役者」をやりたいのだと思う。別に照明や音響や舞台監督をしたいならそれでも構わないが、「社会人から演劇を始めたい!」と言って裏方志望だった人を僕はあまり見たことがないので、ここでは除外しておく。

社会人から演劇を始める方にとって最大の疑問は、「どうやったら演劇を始めることができるだろうか?」ということだと思う。

これについての答えは大きくわけて二つ。一つは、団員を募集している劇団にコンタクトをとること。もう一つは自分で劇団を作ること。後者は仲間が集まらないしお金がいくらあっても足りないしお客さんも集まらないので、僕はなるべく前者の方法をとることをおすすめしている。

都市部の方は知らないけど、たぶん地方の劇団は普通にWebサイトとかで団員を募集していると思う。僕は熊本に住んでいるんだけど、熊本の劇団は大抵どこも人を募集している。引く手数多だ。好きな劇団を選ぶという。

とはいえ、どんな劇団があるのかわからないと思うから、まずはその劇団の公演を観に行くのが一番いいだろう。こりっちというサイトを使えば、全国の公演情報を手に入れることができる。自分が住んでいる地区でソートして、気になる公演を見つけてみよう。

stage.corich.jp

ここで、「アマチュア劇団の公演に数千円も払うの?高くない…?」と思った人もいることだろう。そういう人は演劇をやるのが今後どんどんつらくなっていくと思うので、早めに他の趣味を見つけよう。

 

社会人として演劇を続ける

ここからは、社会人になって初めて演劇を始めるという人も、学生時代にもやっていた人も、どちらも対象として話をしていこうと思う。

基本的には、演劇以外に本業があって、役者としてはぜんぜん収入がない状況を想定している。本業を捨てて役者一本で食っていきたいという人は、他のライフハックがあると思うので、「いつ見ても波瀾爆笑」とか「幸せボンビーガール」で役者がゲストの回を見ることをおすすめする。

 

本番に出ることができるか?

役者として一番求められるのは、演技力でもやる気でもなくて、まずもって「本番に出ることができるか?」ということだ。当たり前のことだが、ここを忘れてがむしゃらに頑張ると、頑張りが水の泡になりかねない。

基本的には仕事の休みというのは土日だろうから、それにあわせて公演を打つような劇団を選ぶのが良いだろう。ここで、仕事の休みが土日固定ではないような仕事だと、演劇をするのは難しいかもしれない。また、場合によっては公演前日の仕込みから手伝う必要がある場合も多いと思うので、有給が取りやすい環境の方が良いと言える。

土日の休みが固定だとしても、突発的に土日が仕事になるようであれば、演劇は少し考え直した方がいいかもしれない。演劇の本番と仕事であれば、仕事を取らざるを得ないような場面というのも想定できる。そうなってしまっては、他の団員にも楽しみにしているお客さんにも迷惑をかけてしまうことになる。

 

稽古に出ることができるか?

本番に出るためには稽古に出なければならない。先に言っておくと、稽古に全く出なくても本番に出る場合というのは想定できる。何か一言だけ言って去るとか、ずっと黙って舞台の隅に座っているとか、そういう役であればチャンスはある。しかし、大抵の場合は稽古をしなければ本番に出ることはできないだろう。

社会人として稽古に出るのであれば、基本的には終業後と土日に稽古を行うしかない。社会人ばかりが所属している劇団であれば、そのあたりはスケジュール調整が行われていると思う。

例えば平日の稽古時間が夜8時以降からだったとして、定時の5時や6時に会社を出ることができれば稽古に参加することができる。しかし、職種によっては定時退社が難しい場合も。僕はまさしくこれで、平日は仕事で夜遅くなることが多く、なかなか稽古に参加することができない。参加できたとしても、最後の1時間だけ参加したりすることも多いし、下手をすると他の出演者も巻き込んで深夜遅くまで稽古することになったりもする。すると、自分が体力的にも精神的にもきついのはもちろんのこと、他の人にも同じつらさを強いることになる。このことは、覚えておいた方が良い。

平日に十分な稽古ができないのであれば、休日は多くの時間を演劇に捧げなければならないだろう。公演前は、数週間・数ヶ月間というスパンで全ての土日を稽古に使わなければならない場合も出てくるかもしれない。当然、他の趣味に割くことのできる時間はグッと減ってしまう。

 

セリフを覚えることができるか?

ここまで書いて僕はもう絶望しかけているのだけど、やるべきことはまだある。セリフ入れだ。セリフを入れなければ、稽古も満足に行うことができない。もちろん、セリフの言えない役者は本番で必要とされていない。ただでさえ仕事と稽古で時間がないのに、その合間を縫ってセリフを覚えなければならないのだ。自分のために割くことができる時間はどんどんと減っていくということを覚悟しておくといい。

セリフの覚え方については以下のような記事を書いたので、これから演劇を始めるという人は参考にしてほしい。

 

atohs.hatenablog.com

セリフなんて覚えられる人はちゃちゃっと覚えることができるのだろうけど、僕は死ぬほどセリフ覚えが悪いので死ぬほど時間がかかる。だから、自分が暗記力のいいタイプかそうではないかというのは、社会人として演劇をやるために割りと大事な要素になる。

 

演劇にどれくらい時間を割けるか?

結局のところ、自分の時間をどのくらい演劇に割けるのかということが重要になってくる。1日は24時間しかないし、1週間は168時間しかない。その中で僕たちは仕事をしなければならないし、食事をしなければならないし、睡眠をとらなければならない。他にもやらなければならないことはたくさんある。その中で、自分のために使える時間がどれだけ残るだろうか。そしてその自分の時間の中から、どれだけを演劇のために捧げる覚悟があるだろうか。そのことは、社会人として演劇をやる前に考えておいた方がいいことだと思う。

 

まとめ

要するに、社会人として演劇をするのは時間が足りないし、自分の時間をかなり捧げなければならないということだ。そこまでして演劇をやりたいのかということを考える必要がある。

もちろん、考えてみてわからなければ、とりあえず始めてみるのもいいだろう。時間的に厳しかった、自分の時間がなくなって楽しくなくなってしまった、などと感じるのであればそこでやめればいい話だ。

ただ、いざ始めてしまうと「このタイミングでやめるのも…?」という気持ちが首をもたげてくると思うので、ここに書いたようなことを定期的に思い出してみてほしい。