あとーすログ

文芸、演劇、カメラ、インターネットが好きです。

ポークパンダ三歳「猿のたけなわ」を観た

 

熊本の続Rude barにて、ポークパンダ三歳実験ライブ「猿のたけなわ」を観た。企画・構成は井上ゴムさん。

ゴムさんが作・演出した演劇は、一度たけ大帝ポペの『虚ろな舟』を観たことがある。振り返ってみると、もうほぼ1年前のことだった。

 

atohs.hatenablog.com

 

今回も、話の内容に触れながら感想を書いていきたいと思う。思い出した順番に書くので、支離滅裂な部分があるのはご勘弁いただきたい。

 


下品さについて


観劇後に色々な人の話を聞いて感じたことなのだけど、あの芝居の下品な部分で好き嫌いが分かれるのだろうなと思った。いわゆる下ネタ的な部分。僕はそういった下品なものも好きだし、人間の性愛に関する話も好きなので、その辺りは気にならなかった。むしろギリギリまで攻めていて面白いなあなどと思ったりした。
ただ、これはこの作品以外にも言えることだけれど、そういったものがただ単純にストリップ的な享楽以上のものになるかどうかというのは、常に点検していなければならないと思った。僕が下品なものが好きだというのは、まさしくストリップ的な享楽によるところがないとはいえない。そしてそういうものが嫌いだという人も、ストリップ的なものに嫌悪感を抱いているはずだ。そういうものを超えて、果たして何を伝えようとしているのかということを考えた。
考えたけれど、単純にそれぞれが弱い人間だよねということを伝えるための道具として性欲があったという捉え方で良いのかもしれない。

というようなことを、ゴムさんも稽古日誌で書いていらっしゃいましたね。

今回のタイトルは
「猿のたけなわ」
といいます。猿は一応「えん」て読んでね。

タイトルから連想できるとは思いますが、
とあるBarを入れ代わり立ち代わり訪れる人々が
(実際のBarを使わせていただきます!)
ひたすら飲んだくれるお話です。
その中で・・・
人間の欲だったり、
浅ましさだったり、
見栄・どーでもいいプライドだったり、
そういったものが見え隠れしたり垂れ流しになるのを
滑稽に滑稽に愛しく描きます。
隣の席の飲み会を傍観するように
ニヤニヤしながら楽しんでいただきたいと思います。

 

ここも好き嫌いが分かれるところだと思うけど、僕は未だに自意識ダダ漏れ人間なので、こういう浅ましい感じがとても好きだ。

 

ピロシ


僕は個人的に、ピロシを演じていた磯田渉という役者がとても好きだ。それは、割とかっこいいのにヘタレっぽくて、週刊少年ジャンプのハーレム漫画の主人公みたいな感じがするからかもしれない。そして今回も、女性二人に誘惑されるという役得ぶりだった。

 

 

「ジゴク」について


さて、この作品について書いていくうえで、「ジゴク」というものに触れないわけにはいかないだろう。

以下、パンフレットから引用。

 

ある日突然地面の底の底から噴き出した
「ジゴク」は
あっという間にクマモトを汚染し
未曽有の大災害を引き起こした


ところが正直なところ、この「ジゴク」という設定は僕には不要であったような気がする。もちろん、そこから出てきた男が新たな登場人物となったり、「ジゴク」に飲み込まれた女が腕を無くして戻って来るというのはある種の不気味さを与えるけれど、そんなことを実現するだけならば他にいくらだって手はある。

安直に結論を出すならば、3年前に出現した「ジゴク」は熊本地震のメタファーだと考えることができるだろう。そう考えたとき、そこに出現した「ジゴク」とは何か。それによって汚染されたクマモトとは一体どういうことか。そしてその街で、どうしてみんな平然と暮らしているのか。なぜジゴクの人々は蟹を食べているのか。

僕はこの作品を見ながら、studio in.K.でロングラン公演中の『ジョン王』のことを思い出していた。『ジョン王』はシェイクスピアの戯曲が原作なのだが、いま上演されている『ジョン王』では、原作には登場しない“語り”という人物が登場する。
この語りは、『ジョン王』の時代とは違う価値観を持った未来人的な役割で描かれる。これは端的にいえば批評的かつツッコミ的な存在だ。ジョン王たちの必死さが、語りの観念によって相対化される。

というような機能をこの「ジゴク」も持っているのではないかということも可能ではないだろうか。「ジゴク」が持つ批評的な意味とは何か。
先ほども書いたが、芝居の途中で男が一人「ジゴク」から飛び出して来る。それに慄く人物もいるが、バーのマスターはそれを当然のことだとして受け取る。そして、そのジゴクから出てきた男は、バーの常連として再登場し、何事もなかったかのように受け入れられてしまう。

このシーンは、あちら側の「ジゴク」とこちら側の世界の差異について問いかけているのかもしれない。そういえば、作品の途中で謎の「X」という物質についての話があった。とある物質Xが水槽の中に入った時、その水槽の水の表面だけがXなのではなく、その水槽の水全体が薄いXであるのだと。そして、それとつながっているバーも、マチも、セカイも、そしてニンゲンも、等しくXになってしまっている。ところで、Xに何を挿入できるだろう?ここに「ジゴク」を挿入することは可能なのではないか?

実際、最後の一本グランプリを模した場面で次々に人々が死んでいく様は「ジゴク」と呼ぶにふさわしかったのではないか。僕たちはあちら側のセカイとしての「ジゴク」を恐るけれど、もしかするとそこに差異などないのではないか。そんなことを考えた。

 

 

クリエイターについて


ここ数年くらいで「クリエイター」という言葉をよく聞くようになった気がする。別に昔から呼ばれてるんだろうけど、その範囲がどんどん広がっている気がする。僕は小説を書くんだけど、小説を書いている人も「クリエイター」と呼ばれているのを聞いたことがある。
ここでいう「クリエイター」というのは、いわゆる職業的な呼び方ではないような気がする。小説を書く人ならば「小説家」と名乗ればいいのに、それは恥ずかしくて名乗れない。でも、「クリエイター」なら、それで食えていなくても名乗っていられる。まあもちろん、食えていて名乗ってもいいんだけど。
そして、この「猿のたけなわ」では、「クリエイター」と呼ぶにふさわしいような人たちが集まっていたように思う。お笑い芸人、ラッパー、同人BL作家…。よくよく考えれば、これだけクリエイターばかりが出て来るのだから、自意識ダダ漏れの作品にならないことの方が難しい。こうなってくると、ピロシの凡庸さがますます際立つ。


本当はもっと考えたいことがあったような気がするのですが、ひとまずここまでで。

また今年の秋に大帝ポペがあるとお聞きしているので、そちらも楽しみにしています…!

阿蘇大観峰、冬景色の日の出を撮りに行く

金曜日の夜に仕事が終わっていくつか記事を書き、仮眠をとった僕は、とあるセブンイレブンの前にいた。

 

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時刻は午前5時半。あたりは真っ暗。家に帰ってもう一眠りするか、それとも記事の続きを書くか…。

しかし、せっかくの休日の朝。何かをしたい気分でもある…。

 

実はこの車、何を隠そう先週末に僕のところに来たばかりなのだ。一人でドライブをするのも悪くない。

 

しかし、どこへ?

 

もしかすると、この時間なら日の出を見れるのではないか?と思って早速、阿蘇大観峰の日の出の時刻を調べることに。

 

「Hey siri 大観峰で日の出を見たい」

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大観峰まではどのくらいかかるんだっけ?

 

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なるほど、1時間で着くのか。今から出れば間に合うな。

 

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でも、一人で大観峰に行くってどうなんだろう?こういうのは、大学時代の友人とかとわいわいがやがやしながら見に行くものなのではないだろうか?

一人で日の出なんて見て楽しいのだろうか?

しかも、これは初日の出でもなんでもない。別におめでたくもなんでもない。

それよりも、僕は家に帰ってもっと生産的なことをするべきなのではないか…?

 

 

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来てしまった。

 

僕の運転が下手くそなおかげで7時ぎりぎりになってしまったが、どうやらまだ日は出ていないようだ。もう少し早ければ、青と赤が入り混じったいい感じの写真が撮れたような気がする…。が、自分の運転技術を恨む以外にほかない。

 

他にも日の出を狙っているっぽい人たちがいたので、僕もそこに陣取った。

ちょっと太陽が生まれかけているのがおわかりいただけるかと思う。

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写真ではあまり伝わらないかもしれないが、阿蘇はめちゃくちゃに寒い。帰りに温度計を見たらマイナス6度だった。常にエアコンの効いた部屋で管理されている人類にはつらい温度である。めちゃくちゃに着込んで来た良かった。

 

だいたい10分くらい待っていると、太陽が顔を出した。

 

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でも、日の出ってどのくらい顔を出したあたりでシャッターを切るのが適切なのか全くわからず、他の人たちが帰るまでシャッターを押し続けたし、なんなら他の人が帰ってからも10分くらいはシャッターを押していた。

ちなみに豆知識なのだけど、出たばかりの太陽は死ぬほど眩しい。

 

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最後の一枚は少し方向をずらして撮ってある。

本当は露出を変えて50枚くらい撮っているんだけど自分で見ていても飽きるので3枚だけ載せておく。

日の出は現像が難しい。もっと綺麗な感じになると思っていたんだけど、眠たい写真にしかならない。まだまだ精進が必要だ。

アンダー気味で撮ったやつをいじるとそれなりに上手くいくみたいだということだけは分かった。

 

他のアングルからの写真も何枚か。

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 周りには5人くらい日の出の写真を撮りに来ていた人たちがいたんだけど、太陽が全貌を表すと同時に帰ってしまった。

正直なところ、めちゃくちゃ寒いし手は冷たくて痛いし僕も帰りたくて仕方なかったんだけど、せっかく1時間半もかけて来たのにこのまま帰ってもいいの…?などと僕の心の中の貧乏性マンが囁き、結局は展望台までのぼることにする。

 

結構しっかり雪が積もっている。

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17時から9時の間、メインの駐車場は閉まっている。ちょっと余計に歩かなければならなかった…。

 

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来る途中の道路にはほとんど積もっていなかったんだけど、下が土になっているからか、展望台へと続く道にはやたら雪が積もっている。

 

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椅子が埋まってしまっていた。

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展望台に来ると、カルデラの様子がよく分かる。

 

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ちゃちゃっと撮って帰ることにする。

周りに誰もいなくて寂しいし、何よりめちゃくちゃ寒い。冬の大観峰、しかも早朝に間違っても一人で来るべきではないということを学んだ。

 

帰りの車を運転していると、なぜかアメリカの国旗を見つけた。どうやらここに牧場があるらしい。しかし、牧場だからといってなぜアメリカの国旗が…?

 

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その近くに、一面の銀世界を見つけたので飛び込んでしまった。

 

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まっさらな雪を見るとやりたくなってしまうやつ。

 

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一人で寂しいということを除いては、冬の大観峰の写真が撮れたし行って良かったなあと思う。

ただ、今度はもっと綺麗に撮れるはず。今回はなんの準備もなしに行ったので、次に行くときには作例を見てある程度の構図を考えてから撮影に臨もう…。

などと考えるのは今だけで、今度行くときは絶対に忘れているのだけど、一応ここで決意をしておく。

そういえば雪も初めて撮った気がするんだけど、こちらもめちゃくちゃ難しい。明るさを出そうと思うと質感が失われるし、かといって暗めに撮ると汚く見えてしまう…。

 

まだまだ勉強が必要ですね。これからも、カメラを連れ出して色々なところに行きたいと思います。

お正月に熊本城に行った

大学生の頃から熊本に住んでいる。熊本に愛着があるかというと別にそうでもないような気がするんだけど、かと言って地元に愛着があるわけでもなく、となるとやっぱり熊本のことが好きなのかもしれない。

 

正月はぼーっと過ごしていたんだけど、ちょうど熊本に140字小説マスターの神田澪さんが来ていたので、一緒に熊本城のあたりをぶらぶらしてきた。

 

 

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ちなみに、熊本城はあいも変わらず工事中です。

 

正月と言いながら、この日はすでに1月6日。ちゃんと初詣をしていなかったので、加藤神社に行くことにした。ただし、次の写真は熊本城へ向かう途中にある違う神社。名前は忘れた…。

 

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ちなみに今回は撮って出しでお送りしているのですが、上の最後の写真をレタッチしたのがこちら。

 

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いつも熊本城を遠くから写真に収めているんだけど、近くで見るとめちゃくちゃ崩れていてびっくりする。というか、ここはまだまだ序の口だった感すらある。

 

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ちなみに、神田さんも写真を撮っていた。神田さんはミラーレスのEOS M10、僕はEOS 6D MarkⅡ。

 

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こう言っていいのかわからないんだけど、工事中の熊本城はなんかゲームの世界に出て来そうだ。

 

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加藤神社。おみくじを引くなどする。大吉だった。ちなみに、おみくじの番号の若いやつを引くと大抵はいい結果が出るというライフハックを知ってから、ずっと実践している。だいたい大吉が出る。

 

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熊本城の崩壊具合は本当にすごい。一昨年の春はここで花見したし、その前は普通に中に入って上まで登ったりしたんだけど、影も形もない。

 

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この辺りが特に衝撃的だった。

 

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やけにカラスがたくさんいたので、撮ってしまった。ぜんぜんフォトジェニックじゃない…。

 

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城彩苑に立ち寄る。熊本城周辺、何もないと思ってたけど意外と楽しめるんだなあと思ったりした。

 

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この芋が馬鹿みたいに美味しかった。リピ確定です。

 

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傘が綺麗だった。

 

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最後に、何枚かレタッチしていたものを。

 

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いつも引きこもってばかりいるけど、たまには外に出るのもいいなあと思ったお正月でした。

 

おしまい。

 

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転回者プロデュースvol.15『ジョン王』を観て

2017年の終わりに、熊本は水前寺のstudio in.K.にて、ミュージカル『ジョン王』を観劇した。僕もこのスタジオの機関紙「転回」の制作を行なったり、写真や動画の撮影をしているのだけど、観客として観たのはそういえば久しぶりだ。今回より導入されたチケットシステムPeatixにややどぎまぎしながら、無事に入場することができた。

 

今回上演された『ジョン王』は、ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲を鴦山史歩がミュージカル用にリライトし、亀井純太郎が演出をしたもの。in.K.のお芝居として、シェイクスピア原作でこの作・演出の作品は『十二夜』以来。

 

『ジョン王』は、実在したプランタジネット朝イングランドの王・ジョンを題材にした史劇だ。僕は原作の戯曲も上演も観ていないのですが、このミュージカル『ジョン王』を観るだけでも、だいたいの話の流れはわかるようになっている。

 

以下、観劇の感想をネタバレも含みながら書いていこうと思う。物語の筋がわかったからといって面白みが減じるわけではなく、むしろわかっていた方が面白くなる作品だと思うのなのだが、気になる方は注意していただければと思う。


この『ジョン王』という作品の中で、非常に不思議な立ち位置の役が「語り」だろう。十二月の公演では松田菜々が演じていた。土地や騎士道を重んじる『ジョン王』の登場人物たちに対して、お金などの資本主義的な価値観を持った未来人的な立ち位置で登場する。彼女は、物語の進行に転機を与える役回りであるが、登場人物たちにはその姿が見えたり見えなかったりする。僕はまだこの「語り」という役の立ち位置についてうまく整理ができていないんだけど、1月の上演も見る中でゆっくりと消化していきたいなあと思っている。

 

一方で、稽古を見ている段階では引っ搔き回し・トリックスター的な役回りなんだろうなあと思っていた枢機卿のパンダルフの出演機会が思ったよりも少なくて少し残念だった。トリックスター的な役回りは、どちらかというと「語り」が行なっていた印象。それはそれで別にいいのだが、個人的には藤野未波が演じるトリックスターが舞台を引っ掻きまわしていく様を見たかったので、その点がいささか残念ではある。


…などと、この調子で役者一人ひとりに触れていたらいつまで経っても終わらないので、そろそろ全体について書いておきたいと思う。

 

僕はin.K.のミュージカルを観るときに「多幸感」という言葉をよく使う。しかし、今回の『ジョン王』では、この「多幸感」というものが少し少なかったような気がする。しかし、それは決してネガティブな意味ではない。これまでのin.K.のミュージカル、たとえば『十二夜』や『やくもの冒険』は、決して壮大な物語ではなかった。『十二夜』はラブコメチックな喜劇だし、『やくもの冒険』は非常に素晴らしい作品ではあるものの、物語の筋としては童話的な部分がある。しかし、今回の『ジョン王』は史劇ということもあって、領土や王位の争い、それに伴う登場人物の死などの要素も入りこむことで、これまでの作品に比べてスペクタクルな印象を受けた。

 

もちろん、コメディチックな演出も健在ではあったが、それも「争い」に焦点を当てているものが多く、「多幸感」とは違った味わいを持っていたように思う。

お気に入りにのシーンを一つ挙げるとするならば、ジョンとフィリップ2世が対峙して、ジョンとアーサーのどちらが王に相応しいかの争いをするシーンだろうか。歌謡曲を思わせる曲調に乗ってお互いの意見を主張するのが大変心地よく、あそこだけ繰り返し見ていたいと思ったほどだ。もちろんこれは、ジョンとフィリップ2世を、僕の所属しているぽでぃっきゅのメンバーである瀬上・野島が演じているからという贔屓目もあるのだけど…。

 

とにかく、僕はin.K.以外でミュージカルを観たことがないのでこういうことを言っていいのかわからないんだけど、すべてを歌とダンスで埋めてしまうミュージカルというのは、エンタメとしてすごく強いと思う。ストレートプレイだと間合いがつまんなかったりすると一気に地獄なんだけど、ミュージカルはずっと歌っているのでずっと楽しい。これは素晴らしいことだと思う。

 

書いているうちにどんどんと偏差値が低くなっていくので、感想はこのあたりで。おそらく、まとまった感想はまた次号のstudio in.K.の機関紙「転回」にも書くと思うので、次回の公演にお越しいただければと思う。

【観劇記録】あべゆう×ピッピ「ぽじ」"関係を結ぶこと"と"リアルの手触り"について

ちょっと前の話になるんだけど、花習舎にて、あべゆう×ピッピ「ぽじ」を観た。作・演出は不思議少年の大迫さん。

 

以前から、大迫さんの私小説的なのにがっちりとした構成のある作品や演出が好きだったのだけど、実は前回に作品を観たのが数年前だったりするので、今回は久し振りに大迫さん演出の作品を見れてとても良かった。以下、内容にも触れつつ感想を。


僕はこの「ぽじ」という作品を見て、関係を結ぶことについて考えていた。一人の男をめぐって、そこに奥さんと不倫相手がいる。この女二人は、本来であれば関係を結びたくないものだろう。男と妻、あるいは男と不倫相手との関係は、愛を求めてその二人の間だけで結ばれる関係だ。ところが、妻と不倫相手という関係は、直接的に繋がりがあるわけではない。そこには、必ず男という媒介を必要とする。また、そこには憎しみが渦巻いていて、負の感情によって関係性を構築する必要がある。これには、多大なエネルギーが必要となる。

 

できれば、自分は関わることなく、もう一人の女との関係性が途切れてほしいとそれぞれの女は思うだろう。しかし、なかなか思うように事は進まない。それならば、やはり二人の女が直接関係を結ぶしかないのだ。

 

はじめに妻が不倫相手に水をかけて、その後に自然に話しかけようとするシーン。あれは、そんな関係性の二人をどうリアルに描くかの挑戦であったと思う。そこには憎しみや恐怖といった感情があるけれど、しかし、初対面の相手を憎むのはなかなか難しくて、様々な感情がないまぜになるはずだ。そのように感情がぶつかりあったとき、どういった反応がもたらされるのか。そこに激情がうまれるのは一つの答えだと思うけれど、「ぽじ」では、もっと静かな形のリアルが展開される。

 

芝居の中にどこまでリアルを持ち込むのか、あるいはどのようなリアルを実現するのかは演出家の特徴が色濃く出るところだと思うのですが、僕は大迫さんからもたらされるリアルの手触りが好きんだなあと改めて思った。

 

一緒に観た何人かの人はこれを観て辛い気持ちになったと言うし、出演していたあべさんやピッピさんも同じようなことおを言っていたんだけど、僕はあまり辛くならなかった。あまり自分毎として観なかったのが大きいと思う。ただただ、奇妙な関係性を結ぶ二人の女性のリアルがどう展開していくのか、というところに興味があった。

 

この二人の女は、お互いが愛する男さえいなければ、別に負の感情で関係を結ぶ必要はない。だからこそ、この二人が仲良く喋るシーンも成立しうるし、実際そういうシーンが登場した。

 

感情は常に単一ではなく、入り混じり、反転して、それぞれの感情がそれぞれの感情を高め合ったり殺しあったりしてどんどん移り変わっていくものなのだなあいう感動を得た。そういう演劇体験だったと思う。

 

何だか変な書き方になってしまったんだけど、僕が言いたいのは「ぽじ」がめっちゃ面白かったということだけです。これまでに色んなところで上演されていて、再演されるような雰囲気でもあったので、皆さまのお近くで上演される際はぜひ行ってみてください。

第三回140字小説大賞

第一回、第二回と10月に募集をしていた140字小説大賞なのですが、仕事や別の同人企画、演劇などなど色々な忙しさを言い訳にしているうちに、ついに12月も目前となってしまいました。

 

なんとか年内にやってしまいたいと思っていたので、思い立ったが吉日、今日から募集をはじめます!

 

年内いっぱいに募集して、年が明けてからゆっくりと選考させていただこうかと思っております。どうぞよろしくお願いいたします!

 

以下、詳細です。

 

【応募規定】

  • 締め切り:2017年12月31日。期間内であれば、何度でも投稿することができます。
  • 文字数:140字以内(スペース、改行を含む)。規定に沿わないものは、審査の対象になりませんので、ご注意ください。
  • 言語:日本語で書かれたものに限ります。ただし、一部に他言語を含むのは構いません。
  • タイトル:タイトルは付さないでください。
  • Twitterアカウント名を付して投稿してください。後ほど、本人確認をさせていただく場合がございます。
  • 最優秀賞(1編)と、優秀賞(数篇)を決定いたします。最優秀賞、優秀賞作品は、当ブログと140字小説botにて、ツイッターアカウント名と共に発表させていただきます。
  • 過去に140字小説botへご投稿いただきました作品は、審査の対象になりません。
  • 自身のTwitterやブログ等で発表したものをご応募いただいても構いません。
  • ご不明な点がございましたら、Twitterアカウント@ATOHSaaa、もしくはメールでatohslit1113@gmail.comまでご連絡ください。

【審査】
140字小説bot管理人あとーすの独断と偏見で選ばせていただきます。ご了承ください。

【発表】
最優秀作と最優秀作は、2017年1月中を目処に発表いたします。(あくまで目処であり、遅れること可能性が大きいと考えていただいて差し支えありません)

【投稿】
投稿は、以下のフォームよりお願いいたします。

 

「初めて知った」は日本語として適切なのか?

「えー、そうなの? 初めて知ったー!」

 

女の子にこう言われて悪い気がする男はいないだろう。たとえ、その言葉が嘘であったとしても。そう言われたいがために、日々マニアックな知識を詰め込んでは、誰のためにもなりはしないそれを披露するときを今か今かと待っている。そういう生き物なのだ、所詮、僕らは。

 

ところで、この「初めて知った」という表現に違和感を覚えたことはないだろうか。知る、というのは、初めて以外にあり得るのか? 2回目に知る、ということはあり得るのか? 僕はずっと以前に疑問に思ったらしく、メモ帳の隅に「初めて知った、という表現について」という走り書きがあった。たぶんここまで読んで10人中8人は「どうでもいい…」と思っているだろうけど、気になってくれているかもしれない2割の人のために、ちょっと考えてみようと思う。

 

 

一回きりの「知る」こと

「初めて知った」という表現に違和感を覚えたことがあると言っても、僕がこの表現を使わないというわけではない。むしろよく使う。それは、世界は驚きと発見に満ちているからだ。

他の人が使っているのもよく聞く。僕は小さい頃から事あるごとに知識をひけらかすのが大好きで、母親によくその日仕入れた知識を披露しては「初めて知ったー!物知りだねー!」と言ってもらっては小さな自尊心を満たしていた。

 

しかし、上にも書いたように「それ知ったの2回目ー!」という表現は聞いたことがない。そう考えると、「初めて知ったー!」という表現も少しおかしいような気がしてくる。初めて、知る? 2回目に、知る?

 

「それ知ったの2回目ー!」は、文法的にはおかしくないはずだ。「知る」を別の動詞、たとえば「食べる」に変えれば「それ食べたの2回目ー!」と自然な日本語になる。「それ食べたの3回目ー!」も「それ食べたの4回目ー!」も許容される。3回目とか4回目とか覚えている人がいるとは思えないが、今まで何を何回食べたか完璧に覚えている人が登場するちょっぴりシュールな漫画だと思えば成立しないことはない。でも、「それ知ったの2回目ー!」は、そういうシュールじゃ誤魔化されない不自然さなのだ。

 

それは、「知る」ことが一回きりの行為であるからだ。たとえば「生まれたの2回目ー!」とは言わないし、「童貞喪失2回目ー!」とも言わない。比喩的には、2回目の誕生とかセカンド童貞という表現もありだけど、現実的には人生において生まれるという行為は一回きりだし、童貞も喪失できるのは一度だけだ。同じように、何か特定の対象を「知る」というのも、一回きりの行為なのだ。

 

 

「理解する」と「知る」

しかし、色々と用例を探ってみると、たとえば「これからお互いのことを徐々に知っていきましょうね」という表現は不自然ではないように思われる。こう書かれると、なるほど「知る」という行為に段階があるように感じられる。一回きりとは、0か100の世界である。「食べている」というとき、あなたはきっと「食べつつある」のだろう。食べるは0か100ではない。しかし、「生まれている」というとき、あなたは「生まれつつある」のではない。生まれてしまっている。「知っている」というとき、「知りつつある」のではない。知ってしまっているのだ。

 

「知る」と似通った言葉に「理解する」という言葉がある。先ほどの「お互いのことを徐々に知っていきましょうね」というときの「知る」は、どちらかといえば「理解する」という言葉の意味に近いかもしれない。「理解する」は、「知る」と比較すると段階的なものを担当しているように思われる。たとえば、哲学を「知る」のは一度だけだろうけど、哲学を「理解する」というのは非常に段階的なものだ。

 

そう考えると、「これからお互いのことを理解していきましょうね」と「これからお互いのことを知っていきましょうね」というのも、意味はほとんど同じようだが微妙な違いを感じ取れるような気がする。前者は、対象を一つの総体としてじんわり認知していくけれど、後者は対象をいくつかのパーツに分解して、「あ、八重歯がるんだ!」「あ、こういうことでなくタイプなんだ!」と一つひとつ発見していくような印象を受ける。やっぱり、「知る」は一回きりという印象が強い。

 

「初めて」という感動

さて、ここで問題は最初に戻る。「知る」が一度きりの行為であるならば、「初めて知ったー!」という表現はやはりどこかおかしなものになりはしないだろうか。

 

ここで、男が無条件に喜ぶ表現を思い出してみよう。「こんなの初めて…!」である。ここでは省略が起こっている。 補完すると、「こんな(経験)初めて…!」という風になるだろう。本当にその経験が初めてであるかどうかは僕らにはならあずかり知らぬところであるが、表現としては特に問題がないように思われる。

 

ここで重視されているのは「初めてであること」だ。省略されなかった「初めて…!」が、そのこと自体の感動を伝えている。

 

先ほどの「初めて知ったー!」が不自然かもしれないと思うのは、「知る」ということに重きを置いているためではないか。ただ知ったことを伝えたいだけであれば、「知る」のが「初めて」であることは当たり前だから、馬から落馬的な重語表現として捉えられるが、「はじめて知ったー!」というとき、それは初めてであること、それによる感動を伝えたいのではないだろうか。そんな意図が隠されていたのか!初めて知ったぞ!!

 

おわり

などというのは、僕が深夜のすき家でカレー南蛮牛丼を食べながら考えた妄言なので、それほど真面目に考えていただく必要はない。なので、女の子から「初めて知ったー!」と言われたときに、「初めて知ったって、なんか変な表現じゃない?だって、何かを知れるのって一回きりだよね。でも、その表現が初めてであることの感動を強調しているのなら、僕はその日本語が間違っているとは言えないんじゃないかと思うんだ」と返してしまう気持ち悪い男にならないように注意してほしいと思う。