あとーすログ

文芸、演劇、カメラ、インターネットが好きです。

大帝ポペ「虚ろな舟」を観て

大帝ポペ「虚ろな舟」を観劇した。作・演出は井上・F・ゴム氏。大帝ポペの芝居を観るのはこれが初めてだったのだけど、Wキャストということもあり、日曜の昼・夕方と2回観劇した。

来月には福岡公演もあるとのことだが、熊本での公演は一旦終了ということで、ここでは内容にも触れながら感想を書いていきたいと思う。アンケートでは「大変面白かったです。ありがとうございました。」と書いただけだったので、大変素晴らしかった「虚ろな舟」への思いをつづることができればと思う。

 

スクールカーストという呪い

この芝居は、とある森の中で舟の「舳先(へさき)」と思われる部分が掘り起こされ、それを見に来た5人が舟の中に閉じ込められてしまうところから始まる。

この後の展開について、パンフレットの中で代表の寺川長さんは以下のように書いている。

突然ですが、皆様は「スクールカースト」という言葉をご存知でしょうか。

(中略)

今回のお話はこのカーストを軸に話が進みます。

彼らもやはり「宿命」の存在に気づきます。

彼らに「革命」は起こるのか?

そしてあなたの「宿命」はなんなのか?

 それぞれの自己紹介が終わった後、舞台ではそれぞれの過去の回想が始まる。幼稚園の頃から始まって、スクールカーストの存在する高校時代へ。

ここで注目したいのは、それぞれが過去を振り返っているはずなのに、舞台の上でそれぞれの過去が溶け合い、共有されてしまうということ。そのように共有することを許すのが「スクールカースト」という装置だ。20代〜40代まで年代もバラバラなはずの5人は、スクールカーストでそれぞれ別の階層に位置していた。だからこそ、それぞれの思い出の中へと補完的に登場することができたのだ。もちろん、それぞれが固有に持つ記憶もある程度はあったけれど、どんどんと個人としての顔は失われていくように思う。彼らは、誰もが通る「スクールカースト」というヒエラルキーを利用して、カテゴライズされた人々を同時に演じている。しかも、そのヒエラルキーはここ数年の学校空間に特有のものではない。「スクールカースト」という概念が存在しなかっただけで、「派手な子」「地味な子」というようなヒエラルキー的意識はどの年代の人も持っていたはずだ。彼らは5人で5人を演じているのではない。5人で1億人を演じているのだ。僕らは等しく、スクールカーストという自然発生的な制度に呪われている。そしてその呪いが学校を卒業した後もつきまとうということがこの芝居の上で表現されていた。ナンバーツーであった高月は、ナンバーワンであった梛木にはどこまでいっても勝てない。それは芝居の冒頭で、梛木が場を「仕切り」始めたときに不快感を露わにしたところからも伺い知ることができるし、最後に「やっぱり勝てない」と言い、食糧を探しに出る梛木に高月がついて行くところは完全に二人の主従/階層を表している。

このようにして、次第にそれぞれの顔が溶けて能面のようになり、5人はそれぞれの階層の概念としてしか舞台上で機能しなくなっていく。端的に言えば、アイデンティティーの危機である。後半で、梛木は船内に用意された謎のスイッチを押してしまう。それを押すと、繰り返し「あなたは誰ですか?」という問いが繰り返される。これは当然、「私はヒルコだ!」という返答を引き出すための装置ではあるのだけど、それだけではないんじゃないのかと思う。「あなたは誰ですか?」という機械仕掛けで平坦に繰り返される問いは、僕の中でそれぞれの登場人顔の顔の喪失をさらに強固なものとした。5人は1億人を演じている。当然、僕らもその1億人の中に含まれている。ゆえに、「あなたは誰ですか」という問いは、あの舞台の上で概念として溶け合ったしまった僕らに発せられた問いなのだ。

 

神様ー人間ー蟻のメタ構造

次に注目したいのは、この芝居のメタ構造についてだ。基本的には、神様ー人間ー蟻というように上から下へと連なっている。

この構造が象徴的に現れている2つのシーンがある。1つは、梛木が非常ベルを押し、それをあわしまのせいにするシーン。もう1つは、それと非常に酷似した天上でのシーンだ。後者がどうして天上のシーンだと判別できたのかというと、人物が一様に天使の輪のようなものを被り、雅な言葉で話していたからだ。前者のシーンでは、あわしまは「蟻が死んでいる」と良い、後者のシーンでは「セベリン(=人間)が死んでいる」という。ところで、あまり重要な点ではないと思うが、天上で押された非常ベルらしきもののせいで人間がたくさん死んでいるところをみると、あれはパンドラの匣のようなものだったのかもしれない。

さて、天上の人物はそれぞれが「ポーリーン」「ドリス」などと呼ばれていた。観劇中はこれが何のことを表しているのか分からなかったのだが、調べてみると沼山正三による小説『家畜人ヤプー』の登場人物であることがわかった。名前だけは知っているが、まだ読んだことはない。調べてみると、上に書いた「ポーリーン」「ドリス」などは白人で、『家畜人ヤプー』の中では神様として扱われている。また、物語の主人公となる過去から来た日本人の名前は「瀬部麟一郎(せべりんいちろう)」。劇中で人間が「セベリン」と呼ばれているのは、ここから来ているものと思われる。

そもそも、この芝居が神話と深い関わりを持つことは登場人物の名前が示している。ここでいう神とは、『家畜人ヤプー』に登場する白人のことではなく、日本神話に出てくる神々だ。

 

・梛木伊佐男(なぎいさお)→イザナギ

・高月清見(たかつききよみ)→ツクヨミ

・天沼昼子(あまぬまてるこ)→アマテラス

・諏佐野興高(すさのおきたか)→スサノオ

 

また、天沼昼子は、物語の途中で自分のことを「ヒルコ」と称する。ヒルコは、イザナギとイザナミが最初に生んだ不具の子どもだ。そして、その次に生まれたのが同じく不具の子である「アワシマ」。あわしまが人語を解さない、奇妙な存在として描かれていたのは、日本の神話に依拠しているからこそなのだ。また、ヒルコは生まれてすぐに葦の舟に乗せられて島流しにさせられており、これも「虚ろな舟」の構造と一致する。

昼子は冒頭で、閉じ込められた舟のことを旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」ではないかというが、この芝居に登場するのは徹頭徹尾、「日本書紀」「古事記」に登場する神々なのだ。

ところで、ここでは便宜上、神様→人間→蟻という階層構造を作ったけれど、本当にこれは正しいのだろうか? 神様→人間のベクトルは疑いがない。パンドラの匣めいたスイッチを押すことで人間は死んでしまうし、人間をコントロールする遊びを天上で行なっている(余談だけど、その遊びの中で「この絵描きを王にしよう」というセリフがあって、ヒトラーのことかな? と思ったりした)。

ところが、蟻は梛木が非常ベルを押したことで死んでしまったのだろうか? 恐らくそうではない。もっと直接的・物理的に触れ合った結果、この蟻たちは死んでしまったのだろう。

また、もう一つ興味深い事実がある。それは、劇中の講義で語られる蟻の誘引フェロモンと同じような構造でもって、人間たちが舟におびき寄せられているということだ。これは、神様→人間→蟻という階層構造ではなく、神様→人間←蟻という構造があることを示しているのではないだろうか。なんてことを少し思ったりした。この点に関しては、少し根拠が弱い気がする。でも、神様→人間と同じような構造として人間→蟻と捉えるのは、人間の傲慢というような感じがしないでもない。別にそういう構造として仕組まれていても読み取っても問題ないとは思うんだけど、読み取る側としては、安易にそう考えてしまうのは危険かなという気がする。

 

侵食する舞台

メタ構造を有し、1億人の中に僕らまでも取り込まれるこの芝居において、やはり役者は客席の側に侵食してくるような演出が多々見受けられるように思われた。それは、全貌を理解しておらず、一つひとつのセリフを初めて聴く一回目の方で顕著だった。

最初の講義のシーンで諏佐野が客席に向けて語りかけてくるシーンもそうだし、幕間の休憩時間中に、あわしまが一人で客席に語りかけてくるところも、芝居のフィクションと客席のリアルとの境界を溶かそうとしているように感じられた。

 

ヒルコのアイドル化

舟が飛び立つ寸前、ヒルコがアイドルになったのは面白いなと思っていて、アイドル=偶像なので、あの時点でヒルコは神となってしまったと解しても良いと思うん。そもそも、天沼昼子という人物をどう捉えていいのか掴みかねているところがある。というのも、上で書いたように彼女はヒルコであると同時にアマテラスでもあるのだ。また、ヒルコとして人間たちを宇宙の彼方に連れて行くことに、神話的意味はあるのだろうか? こちらは、蟻の生態とリンクさせられていると考えるのが自然だろうか…。

 

あわしまの誕生

最後にあわしまが誕生するシーンがあるけれど、あそこも僕は意味を掴みかねている部分がある。生まれて来た子どもを殴れずに受け入れ、抱きしめたことには、作中で言われていた「繰り返される暴力」を止めたという意味がこめられているのだと思った。しかし、そこで生まれて来たあわしまのことを「お母さん」と読んだことの意味は何だろうか。

 

そのほか

梛木役はイケメンでしか成立しなくて、まさに長さんがドンピシャという感じ。途中で脱いだ時も、腹筋が綺麗に割れててすごくかっこよかったです。

長さんの芝居がすごく好きなんだよなあと思って見ていた今回。でも、前回に芝居を見たのっていつだろうと考えると、実は劇団モノクローズのぷち公演「ハイ、チーズ」が最後なのではなかろうか。酔っ払い役がすごく好きだった。となると、これが2013年夏のことなので、もうかれこれ3年半以上前のことになってしまうのか…。

恐らく何かのワークショップで一緒になったことがあるのですが、発話の瞬発力があるし面白いしイケメンだし、なんかもう完璧なのでは…。

 

それと、今回はあわしまがダブルキャストだったわけですが、全く印象が違っていてびくりしました。あたりまえなんだけど…。ごく端的かつ乱暴に言えば、土山さんが天使ではまもとさんが悪魔という感じがしました。土山さんの方は、劇中歌である「暗い日曜日」を歌ってるとき、目に涙をためているのが印象的でした。

 

まとめ

感想というよりは悪いオタクの考察みたいになってしまった(というか悪いオタクの考察そのもの)のですが、とても面白く、次の公演が非常に楽しみになりました。次回もぜひ、福岡だけではなく熊本でもやってください…!!