あとーすログ

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人生の無意味さについて

千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』という本がとても良かった。ページを繰る手が止まらない本に出会ったのは久しぶりのことだった。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

この本の中では、勉強をするために「言語偏重」になることを勧め、「勉強とは何をすることかと言えば、それは、別のノリへの引っ越しである」と言います。

つまり、あるノリの最中にいる自分を相対化して、別のノリに移行する必要がある。その中で重要なのが「ツッコミ=アイロニー」「ボケ=ユーモア」という概念だ。

本書の筋からは恐らく脱線してしまうのだけど、僕はこの中で「ツッコミ=アイロニー(以下、アイロニー)」に興味を抱いた。

 

なぜなぜ病の克服

アイロニーというのは、「コードを疑って批判すること」と本書では定義されています。さらに「コード」の定義まで遡ると、次のように書いてある。

 

環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向付け」である。それを、環境の「コード」と呼ぶことにする。

つまり、アイロニーというのは、その場にある前提を批判することである、と僕は解釈している。僕たちは物事を批評したり議論したりするときに、何らかの足場を持っている。その足場を疑ってしまえば、前提が揺らいで、何もできなくなってしまう(というようなことを、そういえば国語の授業の評論で読んだことがあるような気がする)。

「超コード化」とか「脱コード化」の意味についての厳密な議論については本書を読んでいたくことにするとして(ちなみに、「キモい」というのもこの本の中で語られる概念である)、これってつまり「なぜなぜ病」みたいなものではないかととりあえず理解している。

 

ここからは僕のアレンジが介入するので、『勉強の哲学』をは切り離して考えていただいても構わない。

「アイロニー」は前提を疑うことだ、と書いた。よく言われることだと、例えば「殺人は悪いことです」と言う。これに対して幼児は、「なぜ殺人は悪いことなんですか?」と聞く。すると僕らは答えに窮してしまうわけだけど、ひとまず「悲しむ人がいるからです」ということになる。すると、幼児はまた「なぜ悲しむ人がいると人を殺したらいけないんですか?」となる。それに対しては、「あなたも悲しいのは嫌でしょう?人の嫌がることはしてはいけません」という答えに辿り着くかもしれない。それに対して幼児は、「なぜ人の嫌がることはしてはいけないんですか?」と聞いてくるだろう。こうして、不条理な質問は繰り返されていき、終わりを迎えることはない。

 

ところで、これは僕が昔よく考えていて、おそらく皆さんも考えていたことだと思うんだけど、この「なぜなぜ病」を「人生に意味はあるんですか?」という問いに当てはめてみる。すると、割と簡単に「人生に意味など無い」という結論に辿り着く。「人生の意味」というものについて、僕たちはまず手始めに自分以外の存在に求めるだろう。「人類の発展に寄与するため」とか、「好きなあの子を幸せにするため」とか。しかし、突き詰めて「人類の発展に寄与する」ことや「好きなあの子の幸せにする」ことに意味があるのかと考えることにする。ここでも、まあいくつかの意味を生み出すことができるだろう。しかし、この問いをどんどんと繰り返していけば、やがてその問いが拡散していく。そうして、きっと人生は無意味であることに気付くはずだ。

 

僕は哲学を誠実に勉強したことがないのだけど、Wikipediaの「人生の意義」というページを見ると(便利なページがあるものだ)、「ニヒリズム」というものに該当するのかもしれない。以下、「ニヒリズム」の項より引用する。

ニヒリズムは、人生には意味はない、と示唆・主張する。簡潔に言うと、ニヒリズムというのは「最も高い価値があるものを無価値にしてしまう」過程と言える。だからニヒリズムでは「“人生の意味”などというものはない」と考えることになる。

ここで強く主張したいのは、僕は別に人生に意味がないということに悲観しているというわけではないということだ。人生に意味がないから死んでしまおうと考えてしまおうと考えているわけではないし、自暴自棄にもなっているわけではない。ただ、「人生は無意味だ」という認識から自分の生きる意味を仮構する必要があるのではないかと考ええているのだ。

 

生きる意味を作り出すゲーム

この「人生の意義」というページを見ていると、「人生の意義」に対して様々なアプローチが取られていることに驚く。彼らは、「人生の意義」を考えることを「人生の意義」にしていたのではないか。僕はそう考える。彼らは、「人生の意義を考える」というゲームを楽しんでいたのだ。

僕が「人生は無意味である」と言っていることに対して、「こういう風に生きる意味がある」というのは自由だ。そしてそれは、そう悪いことではない。ただし、それはゆくゆくは不幸をもたらすのではないかと考えている。人生の意味をある点で一つに定めてしまうと、その意味が失われてしまったときに、また「生きるとは何だろう」という問いにぶつかってしまうことになる。

 

そうであるならば、僕らはもっと積極的に「人生は無意味である」ということを受け入れて、生きる意味を作り出すゲームにしてしまう必要があると思う。もちろん、「生きる意味を作り出すゲーム に何の意味があるんですか?」という問いに対しては「意味はありません」と答えるしかないのだけど、そんなことはすでにわかっていることだ。人生は無意味だという前提の上に、僕らは人生を意味づけしてみるというゲームをしている。その事実が、何よりも頼もしく感じられる。

 

まとめ

色々と書いたけれど、要するに「人生は究極的には無意味だけど、それは決して悲観的な事実ではない」ということを書きたかった。

「人生は究極的に無意味だ」ということを僕は何度か人に言ったことがあるんだけど、大抵「どうしてそんなこと言うの?」「そんなことないよ!」「私は、生きる意味を探すために生きているのだと思います」というポジティブの暴力にさらされてきた。僕は決して悲観しているわけではないのに(「生きる意味を探すために生きる」というのは、深刻な文脈でなければかなりゲーム的な気はするけれど)。

 

まあ僕のことはどうでもいいので、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』はとても面白い本だったので皆さん読めば良いと思います!

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために