カミュ『異邦人』を読んだ
大学で文学を学ぶ身でありながらカミュを読んだことが無かったので、代表作である『異邦人』を読んでみました。窪田啓作訳。読了後の感想は一言、疲れた。
『異邦人』を読んだ。疲れた。
— あとーす (@ATOHSaaa) 2016, 1月 21
なんで『異邦人』を読んだだけのツイートがふぁぼられてるのか不思議なのですが、皆さん恐らくカミュのことが好きなのでしょう。
『異邦人』を読み切るのに、だいたい3日くらいかかりました。そんなに長い小説ではないです。ちょっと文字が小さいですけど、文庫本サイズで120ページほど。けれど、休憩を挟みながら読んでいたら、とても時間がかかってしまいました。
そもそも、僕は海外文学を読むのが苦手です。どうして苦手かというと、文章についていけないからなんですね。外国語を日本語に訳しているのだから日本語として不自然になりがちなのは当然だし、そもそも訳が古い場合は、もう全然受け付けなくなってしまいます。僕が読んだ新潮文庫版の窪田啓作訳が昭和29年発行で、まあそこそこ古いという感じでしょうか。
これは僕の欠点であると自覚していて、物語を楽しく享受することができないので、荒療治ですが海外文学をたくさん読んでなおしていきたいなあと思います。(積み本は日本人作家のものばかりですが…)
さて、『異邦人』の文学史的位置づけを確認してみると、「実存主義」や「不条理文学」というキーワードが出てきます。
「実存主義」についてはサルトルとセットで語られることが多いようですね。ところが、巻末についていた白井浩司の解説によれば、カミュは実存主義とは違うところにいたようです。
日本においてもそうであったが、フランスにおいてさえカミュはサルトルと同じ種類の実存主義者と見なされた一時期があった。(中略)
思想も、生い立ちも、資質も、感受性も、小説の方法や小説観や文体においてさえも、カミュはあきらかにサルトルとは異なる。ただこのふたりは、別々の仕方で、人間の不条理を描いてみせたのだ。
(カミュ著 窪田啓作訳『異邦人』の白井浩司による解説)
僕はサルトルの思想をロクに知らないのでここには立ち入りませんが、今度『嘔吐』を読もうと思っているので、違うんだなあという感覚を持ちながら読みたいと思います。
さて、もう一方のキーワードである「不条理文学」について。これについては演劇に与えた影響が大きいようで(『異邦人』単体で影響を与えたわけではないでしょうが)、イヨネスコやベケットなどが不条理演劇を実践し、日本では別役実が不条理演劇の実践者として知られています。
イヨネスコについては、僕はイヨネスコの戯曲を使った演劇を見たことがあります。「雨傘屋」というユニットの公演で、演出は天野天街さん。これがめちゃくちゃ面白かったんですよね。
さぞかし戯曲単体で読んでも面白いのだろうと思って図書館にあるイヨネスコ全集を引っ張りだしたのですが、これが全然面白くない。雨傘屋の公演では原作を少し脚色していたということもあるんだけど、戯曲は上演されてこそ面白いんだと思いました。不条理演劇の滑稽さは、舞台で役者が演じて初めて発揮されるのではないかな、と。
実は「禿の女歌手」を見る1年か2年くらい前に別役実の「さらだ殺人事件」を僕が所属していた演劇部で上演したことがあって、僕も役者として出演したんですけど、やってて全然面白くなかったんですよね。今となっては別役実の不条理の面白さも少しは理解できますけど、当時はそれも理解できていなかった。それに、演出も(演出してない僕がいうのもなんですが)力不足だったように思います。それは、天野天街さん演出の「禿の女歌手」を観劇して、「そういうことだったのか~」と納得しました。
禿の女歌手の話になってしまったので、『異邦人』に話を戻しますね。
『異邦人』は前半が絶望的につまらない。殺人を犯して(殺人を犯すって文庫の裏のあらすじにも書いてある!)以降は面白く読めるのですが、前半はいわば伏線なので、全然面白くない。これが日本語の小説であれば物語として楽しめるのかもしれませんが、外国のお話なので生活様式も分からないので全然何やってるかわからないのです。もちろん、字面からどういう行動をしているのかはわかるのですが、自分の生活を持ち込んでそれを読解することができないので、非常にストレスなのです。
後半はずっと「今回の殺人とママンが死んだ後の行動は別に考えるべきでは…?」とずっと考えていて、最後に司祭に対して激怒するところは良かったなと思います。良かったです、というのはカミュが神を盲信することを否定するという思想が読み取れて良かったです、という意味です。
『異邦人』については一人で読んでもよく分からないところが多かったので、誰かフランス文学に詳しい方に色々聞きたいなと思っております。