あとーすログ

文芸、演劇、カメラ、インターネットが好きです。

写真集を買う意味がわからなかったし、今でもよくわからないかもしれない

写真集というものを今まで買ったことがなかった。デジタル一眼レフを買っても、そもそも現像するという発想がなかったことは先日書いた。

 

atohs.hatenablog.com

 

 

つまり僕は、基本的に写真=情報・データという認識が強く、「モノ」としての写真にあまり興味がないということになる。今やTwitterにもInstagramにもPinterestにも綺麗な写真がたくさん流通している中で、それにいいねしてローカルに保存して個人で楽しんでいれば、別に不満はない。

だから、写真集を買う意味がわからなかった。

ところが先日、僕は生まれてはじめて写真集を買った。

広瀬すずの写真集『17才のすずぽん。』だ。

 

広瀬すずPHOTO BOOK 『17才のすずぼん。』

広瀬すずPHOTO BOOK 『17才のすずぼん。』

 

 言い訳がましくなってしまうんだけど、この『17才のすずぽん。』という23歳の男が手に取るにしては恥ずかしいタイトルの写真集を買ったのには理由がある。


写真集を作ることになった

実は、僕の方が写真集を作る立場になってしまったのだ。

とは言っても、別に商業で作るわけではない。初心者のカメラマン(=僕)が、初心者の被写体を撮るお遊びみたいなものだ。数十部くらい刷って、製造原価にロケのガソリン代や小物代が回収できるくらいの値段をつけようと思っている。

売る側が該当の商品を買ったことがないというのでは話にならない。そんなものは売れるはずがない。というわけで、他の写真集はどうなっているのかと研究するためにTSUTAYAへと赴いた。

写真集なコーナーをみつけてしばらくいろんな書籍の表紙を見ていたんだけど、いまいちピンとくるようなものがなかった。

そこで最初に見つけたのが、青山裕企『かわいいスカートのめくりかた』 だった。

かわいいスカートのめくりかた

かわいいスカートのめくりかた

 

ただ、あまりにもフェティッシュすぎてこれから撮る写真集の参考になるかわからなかったし、レジに持って行く勇気もなく、また棚に戻してしまった。

そしてその後に見つけたのが、冒頭に挙げた『17才のすずぼん。』だった。

これは一つ断言できるのだけど、今この画像で見ている表紙の画像よりも、実際の表紙を肉眼で見たときの方が、間違いなくかわいく見える。人に使う言葉じゃないかもしれないけど、シズル感がぜんぜん違う。濡れた髪。キラキラと力強く輝く瞳。この子は生きているんだと強く実感した。

そして僕は、この写真集を購入することになる。

 

付加価値

僕が作ろうとしている写真集の方に話を戻す。

写真集制作のメンバーは、僕と被写体の皮含めて4人いる。コンセプトは「恐い写真集」。普通にかわいい写真を撮るのはアイドルの仕事だと思うので、少しひねった写真集を作りたいと思っている。

この写真集の計画をメンバー以外な人に話したところ、「それって需要あるの?」と言われてしまった。

曰く、写真だけを集めた本をだれが買いたいと思うのか疑問とのこと。そもそも僕がこれまで写真集なるものを買ってこなかったのだから、合点のいく話だ。

たとえば、グラビアアイドルの水着写真集であったら、まあなにに使うと明言しないけど「実用的」な側面がある。けれど、今回作ろうとしている写真集はそういう類のものではない。

そんな写真集を作るなら、実用的なもの、たとえばカレンダーやポストカード、タオルなどにしてみてはという提案を受けた。

マーケティングの世界では「ドリルを買いに来た人が欲しいのはドリルではなく穴である」という言葉があるけれど、確かに写真集を買った人がどんな価値を提供できるのかということを考えなければならない。写真見てもらって「こわい」「すごい」と思ってもらうことが「穴」に当たるんだろうけど、その穴はべつに写真集じゃなくてデータでもいいわけだ。

広瀬すずの写真集には、紙でしか表現できないような生き生きとした感じがあった。あれなら、データではない提供できないような「穴」を実現することができるだろう。一応、僕は印刷業界に身を置いているので、紙によっておなじクリエイティブでも全く表情を変えてしまうのだということは知っているつもりでいる。ただ、その価値は意外と伝わりにくいのかもしれないとも思う。

それならば、日付を知れるし飾ることもできる(=ポスター)、切手を貼ればハガキとして投函できる(=ポストカード)というわかりやすい付加価値がついているほうが良いのかもしれない。

 

イラストの付加価値

写真集からグッズの展開まで考えたときに、同じようなことを前に考えたことがあるということを思い出した。

僕は無間書房という文芸同人サークルの代表を一応やっていて、そこではグッズの販売も行っている。表紙などは専門のサークルメンバーがいて、その人に毎回お願いしている。

その表紙の絵などがあまりにも素晴らしいので、ぜひとも色々な人に手にとってほしいと思ったのだが、ただイラスト単体で売ったところで多くの人は購入してくれないだろう…。

そういう思いで、まずはポストカードなどを作成した。また、より実用的なグッズを企画しようということになり、2016年の文豪カレンダーを作ったりもした。

mugenshobo.booth.pm

文豪のイラスト自体も大変素晴らしいんだけど、このイラストだけではなかなか多くの人に手にとってもらうことは難しかったんじゃないかと思う。「カレンダー」として、日付を把握することができるという機能があったからこそ、成立したのではないだろうか。

 

結局、写真集を買う意味って…?

さて、ここまで色々と書いてきたけれども、写真集を買う意味って結局なんなのだろう?

別に、意味など考えずにほしい人だけが買えばいいというのは正しい意見だと思う。別に僕みたいに写真集を買う意味がわからない人は、買わなくていい。

しかし、ふと自分のクリエイティブに値段をつけて流通させるというときに、そこにどのような付加価値をつけるのかということは重要な視点だと思う。

僕は今回、被写体の女の子の怖さというのをたくさんの人に伝えたい。それでは、そうするために必要な戦略とは何か。まずは圧倒的に怖い写真を撮ることなのなんだけど。それだけだと、たとえばTwitterで宣伝画像を見たり、実物をパラパラとめくるだけで満足してしまうかもしれない。それを「購入する」という段階まで進めるためにはどうしたらいいのか。ということになると、写真集を買う意味がわからないまま売ってしまうのはまずいと思う。

 

まとめ

ということで、写真集を人々が購入する意味を考えながら、写真集を作るのかそれ以外のものを作るのかということをこれから考えてみたい。

それはきっと、僕の中で「写真を撮る」ことに対する意味を問う行為にもなるのだと思う。また、そもそもこれから撮る写真が一体どのようなものになるのかわからない。経験値があれば、ある程度どのような作品が撮れるかを予測して企画を立てるということもできるだろうが、僕には全くどのような写真になるのか予測がつかない。

これから一歩ずつ、一枚ずつ写真を撮りながら、写真を使った作品をつくりあげていきたい。

 

ちなみに、写真はこんな感じで撮っている。

「モノ」ではなく「情報」にお金を払うのに抵抗があるんだと気付いた、久しぶりに写真を現像した日

僕はあまり電子書籍を読まない。これまで購入した電子書籍は3冊ほど。あとは、Kindle Unlimitedの体験版で数冊読んだ程度だ。
 

電子書籍を読まない理由

 
電子書籍を積極的に読まない(購入しない)のには、主に3つの理由がある。
 

①所有できない

僕は本を「情報」ではなく「モノ」として捉えている面がある。だから、書影をTwitterやInstagramに上げるのが大好きだ。
ところが、電子書籍で得られるのは「情報」だ。これでは、僕の所有欲を満たすことができない。
 

②買いすぎてしまう

就職してからクレジットカードを作った。それからAmazonで書籍を買うんだけど、読んでもないのにどんどん買ってしまう。
 
紙の本だったら家に届くのでまだ自制できるのだが、恐らく電子書籍を買うことにしたら最後、湯水のようにお金を使ってしまうだろう。しかも、購入した本のほとんどは読まれない。
 

③読みづらい

基本的にはスマホで読んでいるんだけど、やっぱり紙の本に比べると圧倒的に読みづらい。
 
テキスト中心の書籍だったら、文字の大きさを変えたり出来る。ただ、これまで読んだ本は図版等が多数入っているものだったので、いちいち拡大する必要がありました。数ページ読む程度だったら大丈夫なのですが、100ページを超える書籍を読むのはストレスがたまりました。かと言って、等倍で読むのも目が疲れるし…。
 
ただ、この現状を打開してみようと、AmazonでセールをしているときにFireタブレットを買ってみました。通常は8980円なのですが、5500円引きの3480円だったので、まあ使わなくても良いかくらいの気持ちで、つい。
 
数日使ってみたところ、こちらはなかなか悪くない。ただ、スマホとは別に端末を持ち運ぶのが面倒くさく、充電するのはさらに面倒くさい。iPadくらい色んなことができると充電したり持ち運んだりするモチベーションもわいてくるのですが、こちらは基本的に電子書籍を読むだけの端末(プライムビデオを見たりもするけど)。
 
さらに、SIMカードが差さっているわけでもポケットWi-Fiを持っているわけでもないので、家以外では事前にダウンロードしていたコンテンツしか閲覧できないというのがやや不便。
 
というわけで、今でも充電切れのままで自宅の机の上に放置されている。
 
 

結局、「モノ」以外にお金を払うのに抵抗がある

以上の欠点は、決して電子書籍の欠点ではない。特に「買いすぎてしまう」については僕の自制心が働けばいいだけの話だ。そうでなければ、電子書籍はとても便利なものになるだろう。
 
実際、電子書籍市場はここ数年で伸びているという話も聞く。少し古いデータだが、株式会社インプレスの調査によると、2015年度の国内電子書籍の市場規模は1584億円となっている。もちろん、その中でコミックが8割を占めるなど紙の書籍とはやや違う事情があるわけだが、それでも順調に電子書籍は普及しつつある。
 
ただ、ここまで便利ないまいち普及しきれないのは、やはり「モノ」に対してお金を払うことに抵抗があるからではないかと考えている。
 

誰も写真を現像しない

そんなことを考えたのは、先日、仕事の用事で写真を現像していたときのこと。そういえば、写真を現像するなんて10年ぶりくらいじゃないかということに気づいた。
 
小学生の頃までは親が撮った写真を現像してアルバムに貼り付けて整理していた。そういえば、中学生のときに行った修学旅行の写真は、ちゃんと現像して保存してある。
 
しかし、それから10年ほどは本当に1枚も写真を現像していなかったことに気付いた。先日一眼レフを購入したが、それで撮影した写真も現像しようという気が少しも起こらなかった。PCに取り込んで、SNSに投稿したり画面上だけで楽しむのみ。
 
これは単純に、写真に対する意識が変わったからだと言えるだろう。フィルムからデジタルへの変貌を遂げても、写真はまだ現像するものだったように思う。しかし、スマホである程度高画質の写真を撮影することができるようになり、さらにそれをSNSやメッセージアプリで簡単に共有することができる。保存することもできる。となると、わざわざ現像する必要がなくなってしまうのだ。
 
さて、ここで。例えばの話だが、写真を誰かに共有するときに、現像するときの同じ料金がかかっていたら? 恐らく、これほどまでに写真を現像する文化が廃れてしまうこともなかったと思う。しかし、実際には無限の写真を私たちは共有することができる。現像された写真という「モノ」に対してはお金を払い、「情報」であるデータの写真には、お金を払う必要がない。この点が重要なのではないだろうか。
 
「情報」だけを売るサービスとしては、動画の定額見放題サービスとか、音楽のダウンロード販売とか、インターネット以前で言うとCS放送とか色々なものがあるけれど、ある程度の成功を収めているようには見える。
 
しかし、それはやはり大多数にはなりえない。テレビを無料で見るし、YouTubeを使って無料で聴く。それをしない、一定数の人たちからお金をとることができれば良いのだ。だから、電子書籍もそうなればいい。
 
ただ、電子書籍が紙の書籍よりも一般的になるためには、この「情報」にお金を払うのに抵抗がある、という精神構造がゆっくりと改善される必要があると思う。もちろん、そんな精神構造はすでに破棄してしまっているという人もいるだろう。しかし、それは僕個人の問題として、あるいは社会全体の問題としてまだ厳然と存在している。

いつまでも年下に追い抜かれることを恐れている場合じゃない

中学・高校とソフトテニスをやっていた。とは言っても、何か部活に入らないと具合が悪そうだという理由だけで無難な部活を決めてしまったため、別に部活動に特別な思い入れがあるわけではなかった。

また、そもそも球技を中心とした運動全般が苦手だったこともあり、全く上達もしなかった。中学生の頃も高校の頃も、大会は1回戦か2回戦で負けるのが定番。少しでも向上心があれば少しは違っただろうが、あの頃は早く部活が終わってほしいということばかり考えていた。いま思えば、中高生の若い肉体と時間をわざわざドブに捨てていたのだから、なんとももったいないことをしたなと思う。

ソフトテニス部は、僕が弱かったのであって、別に全員が下手くそなわけではなかった。むしろ僕より一つ上の代は小学校からやってましたみたいな人が多くて、普通に上手い人が多かった。僕よりもはるかに向上心があった。

その結果どうなったかというと、火を見るより明らかだ。僕は年の功で2年生の途中から部長をしていたけど、最後の大会までにはレギュラーから外されていた。僕より年下の1年生たちがコートの上で試合しているのを、大声張り上げて応援していた。

いま、過去に戻るかとができるならばソフトテニスの練習を真面目にやるかと言われたら全然そんなかとはなくて、間違いなく他の部活を始める。そういえば一度、同じくソフトテニス部の友達と一緒にアカペラ部の練習を見学しに行ったことがあった。あれが僕が転換すべきポイントだったのかもしれないと今になって思う。

僕は間違いなくソフトテニスの才能がなかったし、向上心もなかった。だから、才能に溢れてやる気のある後輩たちにレギュラーの座を奪われるのは当然のことだった。そのことは、仕方ないと思っている。

でも、後輩に追い抜かれていくあの感覚は、なんとも表現できないくらいに後味が悪い。自分より少し歳下の人がテレビなどで活躍していると、嫉妬心に燃えることがある。あれと似たような感覚かもしれない。 

高校生の頃までは、その感覚からずっと逃げていれば良かった。別にソフトテニスをずっとやるわけではないのだ。僕が引退してしまえば、その後の生活には何ら影響がない。ソフトテニスができなくても、別に生活に困ることはないし、劣等感にさいなまれることはない。

 

ところが、社会人になると状況は変わってくる。僕はそろそろ、社会人2年目となる。次の新卒が下に入ってくる。僕は、この1年で何かを身に着けることができただろうか。優秀な新人であれば、すぐに僕のことなんて抜き去ってしまうのではないか。そう考え始めると、非常に恐くなってきてしまった。

しかも、今回は逃げることができない。今回の新卒に抜かれなかったとしても、その次がとても優秀かもしれない。またその次も、その次も……。

今働いている会社で定年まで働くかどうかは分からない。けれど、どこの会社に行ったって、僕は今後40年かけて「仕事」をしなければならない。そのためのスキルを積み上げ続けなければならない。恐い。年下に追い抜かれることが本当に恐い。

 

でも、いつまでも恐がってばかりもいられないなと最近思う。

ここ1年ほど、熊本にあるStudio in.K.というところにお邪魔する機会が多くなった。底で行われる芝居で、役者などをやらせていただいている。

もちろん、僕よりもベテランの役者さんはたくさんいて、とても叶わないなと感じているんだけど、中には中高生なのにすごい演技をする人たちがいる。

でも、演劇はそこで劣等感を持ってしまったら何も始まらなくて、いま自分が持っているもので勝負しなくちゃならない。そして、お互いのいいところを引き出し合いながら、舞台を作っていかなければならない。

ソフトテニスでは、明確に上手・下手の区別がつく。演劇でも当然、上手・下手の区別はあるんだろうけど、そこは「個性」ということでうやむやにされることが多い。とは言え、どこへでも引っ張りだこの役者さん、ファンが多い役者さん、主役級の役を任されることの多い役者さんの方が「格上」だと感じることも多い。そして、僕よりも若いのに明らかに格上っぽい人が当然いる。

 

先日、車の運転をしながらそんなことを考えていたんだけど、ふと、これから仕事や演劇を続けていく上で年下から追い抜かれることを怖がっている場合じゃないなと思った。

それぞれが違う道を通ってくるんだ。それぞれが違うスキルを身に着けているのは当たり前だ。そこでいちいち劣等感を感じて恐がってばかりいても仕方がない。

まずは、自分に足りないところを把握して、それを高めたいと思えば、高めるしかないんだ。こんなこと、本当は高校生のときに気付くべきだった。

 

でも、これは言い訳になるんだけど、僕はソフトテニスのことが好きじゃなかったし、そんなに一生懸命じゃなかったから、そんなことにも気付けなかったんだと思う。演劇は好きでやっているし、仕事は一生ものだから一生懸命にやっていきたい。そんな必死さが生まれたやっと、僕の中で「年下に追い抜かれることを恐れている場合じゃない」という気持ちが生まれた。

 

だから、中高生とか大学生で、自分がやりたくないことをやっている人は、まず自分のやりたいことをやるようにした方がいいと思う。仕事を始めると、生活のこともあるから自分の好きなことを好きなだけ、というのは難しい。

でも、たとえばやりたくない部活ならば参加するだけ無駄だと僕は思う。僕がソフトテニスをしていたのは、健康維持には役立ったかもしれないけれど、やっぱり時間の無駄だったなあと今になって思う。

たぶん、自分の好きなことをやった方が学びが多い。だって一生懸命になるから。スポーツは心を育てるなんていうけれど、スポーツ自体が嫌いだったら、たぶんそれはうまく機能しない。

 

ということを考えながら、今日も明日も頑張りたいと思います。

ことごとく「芸術家タイプ」と診断される僕がストレングスファインダーを受けてみた

就活中、あるいは就職してから、自分に向いている仕事ってなんだろうということを考え、適職診断みたいなものを受けています。

これまでにいくつか試してみたのですが、だいたい芸術家タイプだと診断されます。

クリエイティビティのかけらもない僕にとっては、「お前は社交性も社会に出るスキルもないから家にこもって黙々と一人で作業してろ!!」みたいな宣告に聞こえてしまいます。(もちろん、芸術家の方が社交性がないとは限りませんが…)

 

一通り診断を受け終わってしまったので、最近はこれも運命だと営業として頑張っていたのですが、最近「ストレングスファインダー」というものが話題になっていると知りました。

サイトから有料でコードを入手するか、以下の書籍を購入することで診断を受けることができます。

 

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす

  • 作者: マーカスバッキンガム,ドナルド・O.クリフトン,田口俊樹
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2001/12/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 160人 クリック: 3,045回
  • この商品を含むブログ (462件) を見る
 

 これが無料だったら僕もすぐに診断を受けたのですが、コードを入手するのにも本を買うのにも1500円ほどかかってしまいます。

どうせこれまでみたいに「お前はどうしようもないやつ!!」みたいな診断結果しか出ないのではなかろうかと思って、診断してみるのをためらっていました。

 

ところが最近、その考えが変わりました。それは、以下の採用ページを見たから。

recruit.corkagency.com

 

ご存じの方も多いと思うのでうが、株式会社コルクは佐渡島庸平さんが代表を務めているクリエイター・エージェンシーです。『宇宙兄弟』の小山宙哉さんや、『シュガシュガルーン』の安野モヨコさんのマネージメントをしていて、新しい「編集」の形を模索している面白い会社だ。

僕は佐渡島さんの考えていること・やっていることが大好きで、その佐渡島さんがおすすめするのであればやってみよう…ということで、ストレングスファインダーを受けてみた。

 

僕の診断結果

ちなみに、僕は上で紹介した書籍を買って診断を受けました。こちらも、後でじっくり読んでみたいと思います。

書籍を買ってついてくるコードでは、34の資質パターンのうち上位5位までの資質を教えてくれます。

僕の場合、以下の通り。

 

1.適応性

2.最上志向

3.内省

4.収集心

5.着想

 

パッと見た感じは当たっている部分が大きいように思うのですが、占いみたいに誰でも当てはまることを言っている可能性もあるのかも…? と少し疑っている部分もあります。ただ、せっかく受けてみたのでとりあえずは意識して生活や仕事に生かしてみたいと思います。

 

1番強い資質が「適応性」なのは少し意外だったのですが、説明の冒頭にある「あなたにとって今この瞬間が最も重要です」を見て納得。悪く言えば、刹那主義的で無計画なところがあるのかもしれません。あと、物事は絶対に自分の思い通りにならないと思っているところも大きいのかも。

「突然の要請や予期せぬ回り道に憤慨する人も中にはいますが、あなたは違います。あなたは、それらを期待しているのです。それらは必然のことであり、実のところ、あなたはある程度それを待ち望んでいます」という部分を読んで気づいたのですが、確かに僕は仕事をしているときも、割り込みで仕事を頼まれることを心のどこかで楽しみにしている部分があるかもしれません。

「仕事上の必要から同時にいくつものことに注意を払わなければならない場合でも、常に生産性を保つことができます」というのは、要するにマルチタスクができるということでしょうか。どちらかといえば苦手かもしれないという自覚があるのですが、仕事でもプライベートでも、いくつかの物事を抱えて同時に回していることが多いかもしれません。

 

2番目に強いのが「最上志向」。

確かに、あまり苦手なものを積極的に克服しようとはしませんね。僕は絵を描くのがとんでもなく下手で、何度か練習をしようかと思ったことがあるのですが、大きく平均を下回ってしまっているのでとっくに諦めてしまいました。

自分の所属するコミュニティで1番になれるようなスキルがあれば、それを積極的に磨いていく傾向は確かにあります。誰かの背中を追いかけて…ということはあまりなくて、やっぱり自分がオンリーワン・ナンバーワンになりたいんでしょうね。

 

3番目に強いのが「内省」。

「あなたは考えるのが好きです」とのこと。実際に行動するよりも、僕は色々とこねくり回して考えることの方が好きです。また、他の人の感情を類推したりするのも大好きですね。この辺り、文章を書くのには非常に適しているような気がしますね。もっと精進せねば。

 

4番目に強いのが「収集心」。

僕は積ん読癖があり、読むよりも早く本を買ってしまいます。また、どうでもいいメモもEvernoteやスケジュール帳にどんどんと書き足していってしまいます。

読まない本があったり、ゴミになる情報が多かったりするのですが、いざというときに役立っているので、これからももっと収集しておこう。

 

5番目に強いのが「着想」。

平たくいえばアイディアマンということか! これから仕事でアイディアをどんどんと出していく必要があるので、これは嬉しいですね。

これは、3番目の強みとして出ていた「内省」とつながるところがあるのかもしれませんね。

 

結果を見て思うこと

上でも書きましたけど、まだ「本当かな…?」と思うところもいっぱいあります。ただし、資質を「長所」としてだけではなくて「短所」としても捉えると、うまくいくのではないかなと考えています。というか、「社交性」とかが上位に来なかったというのがこの診断の正しさを証明しているような気がします。

まずは自分の資質を把握することが重要だと思うので、染み込むまでは1日に1回は診断結果読み込んでみたいと思います。

そこから、上位の資質を伸ばせるような習慣づくりを行なっていきたいですね。特に「収集心」あたりは、もっと効率的かつ様々なものを収集できるようになっておきたい!

 

まずは「グッドポイント診断」を受けてみるのもいいかも?

ちなみに、ストレングスファインダーを受けるにあたって他のコルクの採用ページ意外にも様々なサイトやブログの記事を読んだのですが、リクナビNEXTのグットポイント診断を進めているところが非常に多かったです。

こちらも、ストレングスファインダーと同様に自分の強みを5つ教えてくれます。

リクナビNEXTに会員登録すれば無料で受けることができるので、まずはこちらをためしてみるのもいいかもしれません。

 

ちなみに、僕も過去に受けたことがあるのですが、結果は以下の通りでした。

 

・感受性

・柔軟性

・親密性

・悠然

・受容力

 

「柔軟性」というのは、ストレングスファインダーで1位の資質であった「適応性」と似通っているところがありますね。その他はそうでもないかも…? まあ、そもそもそれぞれの結果項目が違うので、比べるのに無理があるんですけどね。

こちらもせっかく出していたのにこれまで活用することができていなかったので、今後の参考にしてみたいなと思います!

大帝ポペ「虚ろな舟」を観て

大帝ポペ「虚ろな舟」を観劇した。作・演出は井上・F・ゴム氏。大帝ポペの芝居を観るのはこれが初めてだったのだけど、Wキャストということもあり、日曜の昼・夕方と2回観劇した。

来月には福岡公演もあるとのことだが、熊本での公演は一旦終了ということで、ここでは内容にも触れながら感想を書いていきたいと思う。アンケートでは「大変面白かったです。ありがとうございました。」と書いただけだったので、大変素晴らしかった「虚ろな舟」への思いをつづることができればと思う。

 

スクールカーストという呪い

この芝居は、とある森の中で舟の「舳先(へさき)」と思われる部分が掘り起こされ、それを見に来た5人が舟の中に閉じ込められてしまうところから始まる。

この後の展開について、パンフレットの中で代表の寺川長さんは以下のように書いている。

突然ですが、皆様は「スクールカースト」という言葉をご存知でしょうか。

(中略)

今回のお話はこのカーストを軸に話が進みます。

彼らもやはり「宿命」の存在に気づきます。

彼らに「革命」は起こるのか?

そしてあなたの「宿命」はなんなのか?

 それぞれの自己紹介が終わった後、舞台ではそれぞれの過去の回想が始まる。幼稚園の頃から始まって、スクールカーストの存在する高校時代へ。

ここで注目したいのは、それぞれが過去を振り返っているはずなのに、舞台の上でそれぞれの過去が溶け合い、共有されてしまうということ。そのように共有することを許すのが「スクールカースト」という装置だ。20代〜40代まで年代もバラバラなはずの5人は、スクールカーストでそれぞれ別の階層に位置していた。だからこそ、それぞれの思い出の中へと補完的に登場することができたのだ。もちろん、それぞれが固有に持つ記憶もある程度はあったけれど、どんどんと個人としての顔は失われていくように思う。彼らは、誰もが通る「スクールカースト」というヒエラルキーを利用して、カテゴライズされた人々を同時に演じている。しかも、そのヒエラルキーはここ数年の学校空間に特有のものではない。「スクールカースト」という概念が存在しなかっただけで、「派手な子」「地味な子」というようなヒエラルキー的意識はどの年代の人も持っていたはずだ。彼らは5人で5人を演じているのではない。5人で1億人を演じているのだ。僕らは等しく、スクールカーストという自然発生的な制度に呪われている。そしてその呪いが学校を卒業した後もつきまとうということがこの芝居の上で表現されていた。ナンバーツーであった高月は、ナンバーワンであった梛木にはどこまでいっても勝てない。それは芝居の冒頭で、梛木が場を「仕切り」始めたときに不快感を露わにしたところからも伺い知ることができるし、最後に「やっぱり勝てない」と言い、食糧を探しに出る梛木に高月がついて行くところは完全に二人の主従/階層を表している。

このようにして、次第にそれぞれの顔が溶けて能面のようになり、5人はそれぞれの階層の概念としてしか舞台上で機能しなくなっていく。端的に言えば、アイデンティティーの危機である。後半で、梛木は船内に用意された謎のスイッチを押してしまう。それを押すと、繰り返し「あなたは誰ですか?」という問いが繰り返される。これは当然、「私はヒルコだ!」という返答を引き出すための装置ではあるのだけど、それだけではないんじゃないのかと思う。「あなたは誰ですか?」という機械仕掛けで平坦に繰り返される問いは、僕の中でそれぞれの登場人顔の顔の喪失をさらに強固なものとした。5人は1億人を演じている。当然、僕らもその1億人の中に含まれている。ゆえに、「あなたは誰ですか」という問いは、あの舞台の上で概念として溶け合ったしまった僕らに発せられた問いなのだ。

 

神様ー人間ー蟻のメタ構造

次に注目したいのは、この芝居のメタ構造についてだ。基本的には、神様ー人間ー蟻というように上から下へと連なっている。

この構造が象徴的に現れている2つのシーンがある。1つは、梛木が非常ベルを押し、それをあわしまのせいにするシーン。もう1つは、それと非常に酷似した天上でのシーンだ。後者がどうして天上のシーンだと判別できたのかというと、人物が一様に天使の輪のようなものを被り、雅な言葉で話していたからだ。前者のシーンでは、あわしまは「蟻が死んでいる」と良い、後者のシーンでは「セベリン(=人間)が死んでいる」という。ところで、あまり重要な点ではないと思うが、天上で押された非常ベルらしきもののせいで人間がたくさん死んでいるところをみると、あれはパンドラの匣のようなものだったのかもしれない。

さて、天上の人物はそれぞれが「ポーリーン」「ドリス」などと呼ばれていた。観劇中はこれが何のことを表しているのか分からなかったのだが、調べてみると沼山正三による小説『家畜人ヤプー』の登場人物であることがわかった。名前だけは知っているが、まだ読んだことはない。調べてみると、上に書いた「ポーリーン」「ドリス」などは白人で、『家畜人ヤプー』の中では神様として扱われている。また、物語の主人公となる過去から来た日本人の名前は「瀬部麟一郎(せべりんいちろう)」。劇中で人間が「セベリン」と呼ばれているのは、ここから来ているものと思われる。

そもそも、この芝居が神話と深い関わりを持つことは登場人物の名前が示している。ここでいう神とは、『家畜人ヤプー』に登場する白人のことではなく、日本神話に出てくる神々だ。

 

・梛木伊佐男(なぎいさお)→イザナギ

・高月清見(たかつききよみ)→ツクヨミ

・天沼昼子(あまぬまてるこ)→アマテラス

・諏佐野興高(すさのおきたか)→スサノオ

 

また、天沼昼子は、物語の途中で自分のことを「ヒルコ」と称する。ヒルコは、イザナギとイザナミが最初に生んだ不具の子どもだ。そして、その次に生まれたのが同じく不具の子である「アワシマ」。あわしまが人語を解さない、奇妙な存在として描かれていたのは、日本の神話に依拠しているからこそなのだ。また、ヒルコは生まれてすぐに葦の舟に乗せられて島流しにさせられており、これも「虚ろな舟」の構造と一致する。

昼子は冒頭で、閉じ込められた舟のことを旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」ではないかというが、この芝居に登場するのは徹頭徹尾、「日本書紀」「古事記」に登場する神々なのだ。

ところで、ここでは便宜上、神様→人間→蟻という階層構造を作ったけれど、本当にこれは正しいのだろうか? 神様→人間のベクトルは疑いがない。パンドラの匣めいたスイッチを押すことで人間は死んでしまうし、人間をコントロールする遊びを天上で行なっている(余談だけど、その遊びの中で「この絵描きを王にしよう」というセリフがあって、ヒトラーのことかな? と思ったりした)。

ところが、蟻は梛木が非常ベルを押したことで死んでしまったのだろうか? 恐らくそうではない。もっと直接的・物理的に触れ合った結果、この蟻たちは死んでしまったのだろう。

また、もう一つ興味深い事実がある。それは、劇中の講義で語られる蟻の誘引フェロモンと同じような構造でもって、人間たちが舟におびき寄せられているということだ。これは、神様→人間→蟻という階層構造ではなく、神様→人間←蟻という構造があることを示しているのではないだろうか。なんてことを少し思ったりした。この点に関しては、少し根拠が弱い気がする。でも、神様→人間と同じような構造として人間→蟻と捉えるのは、人間の傲慢というような感じがしないでもない。別にそういう構造として仕組まれていても読み取っても問題ないとは思うんだけど、読み取る側としては、安易にそう考えてしまうのは危険かなという気がする。

 

侵食する舞台

メタ構造を有し、1億人の中に僕らまでも取り込まれるこの芝居において、やはり役者は客席の側に侵食してくるような演出が多々見受けられるように思われた。それは、全貌を理解しておらず、一つひとつのセリフを初めて聴く一回目の方で顕著だった。

最初の講義のシーンで諏佐野が客席に向けて語りかけてくるシーンもそうだし、幕間の休憩時間中に、あわしまが一人で客席に語りかけてくるところも、芝居のフィクションと客席のリアルとの境界を溶かそうとしているように感じられた。

 

ヒルコのアイドル化

舟が飛び立つ寸前、ヒルコがアイドルになったのは面白いなと思っていて、アイドル=偶像なので、あの時点でヒルコは神となってしまったと解しても良いと思うん。そもそも、天沼昼子という人物をどう捉えていいのか掴みかねているところがある。というのも、上で書いたように彼女はヒルコであると同時にアマテラスでもあるのだ。また、ヒルコとして人間たちを宇宙の彼方に連れて行くことに、神話的意味はあるのだろうか? こちらは、蟻の生態とリンクさせられていると考えるのが自然だろうか…。

 

あわしまの誕生

最後にあわしまが誕生するシーンがあるけれど、あそこも僕は意味を掴みかねている部分がある。生まれて来た子どもを殴れずに受け入れ、抱きしめたことには、作中で言われていた「繰り返される暴力」を止めたという意味がこめられているのだと思った。しかし、そこで生まれて来たあわしまのことを「お母さん」と読んだことの意味は何だろうか。

 

そのほか

梛木役はイケメンでしか成立しなくて、まさに長さんがドンピシャという感じ。途中で脱いだ時も、腹筋が綺麗に割れててすごくかっこよかったです。

長さんの芝居がすごく好きなんだよなあと思って見ていた今回。でも、前回に芝居を見たのっていつだろうと考えると、実は劇団モノクローズのぷち公演「ハイ、チーズ」が最後なのではなかろうか。酔っ払い役がすごく好きだった。となると、これが2013年夏のことなので、もうかれこれ3年半以上前のことになってしまうのか…。

恐らく何かのワークショップで一緒になったことがあるのですが、発話の瞬発力があるし面白いしイケメンだし、なんかもう完璧なのでは…。

 

それと、今回はあわしまがダブルキャストだったわけですが、全く印象が違っていてびくりしました。あたりまえなんだけど…。ごく端的かつ乱暴に言えば、土山さんが天使ではまもとさんが悪魔という感じがしました。土山さんの方は、劇中歌である「暗い日曜日」を歌ってるとき、目に涙をためているのが印象的でした。

 

まとめ

感想というよりは悪いオタクの考察みたいになってしまった(というか悪いオタクの考察そのもの)のですが、とても面白く、次の公演が非常に楽しみになりました。次回もぜひ、福岡だけではなく熊本でもやってください…!!

個人として認識されるのが死ぬほど嬉しいんだ

去年の4月から新卒の社会人として働いていて、まあこんな時代だしいつかは転職するのかもしれないなあなどと考えていて、いくつかの転職サイトに登録している。

たまにスカウトメッセージが届くのだけど、確認してみると、どう考えてもコピペで色んな人に送っているとすぐに分かるものばかり。冒頭に名前はついているけれど、中身の文章にはあたりさわりのない文章が書き連ねられている。

別にそれが悪いわけではない。ある程度セグメントしてメッセージを送れば、そこからある程度の人たちがリアクションをするのだろう。たくさんの人に一度に送ることができるし、そこからコンバージョンがあるならば、これは効率が良い作戦ということになる。

でも、やっぱり受け取る側としては、コピーペーストで色んな人に送られているメールを受け取っても、嬉しくもなんともないのである。

 

随分前から、クラウドワークスやランサーズといったサイトにも登録している。もう全然使っていないのだけど、仕事依頼のメッセ―ジが来るとメールが飛んでくる設定になっているので、仕方なく見てみたりする。

もちろん、こちらも転職サイト同じような内容で、「あなたのプロフィールを見て~」なんて書いてあるけれど、仕事の内容や文章を見れば、適当な人にばらまいているというのが一目で分かる。第一、僕はプロフィールにほとんど何も情報を載せていない。

 

なんて思っていたときに、PVモンスター というサイトに出会った。いかにも怪しい名前のサイトである。

とりあえず概要を見てみると、在宅でライティングをしている人のためのマッチングサービスらしい。と書くと、上述したクラウドワークスやランサーズと変わらないんだけど、PVモンスターが他のサービスと違うのは、報酬が納品した記事の閲覧数によって決まるということ。

正直に言うと、全くここで何かを書いてみようという気持ちはなかったんだけど、面白そうだからと思って登録だけしてみた。実際に、これまで何か記事を納品したこともない。

登録は承認制になっていて、これまでの実績を登録する必要がある。僕の場合、このブログと蓼食う本の虫を実績として載せたら承認してもらえた。この規模でも承認してもらえるので、割と簡単に審査は通るのではないかと思う(保障はしないけど…)。

 

上にも書いたように記事の納品なんかは全然していないんだけど、このサービスに登録して一つ嬉しかったことがある。

それは、PVモンスターの担当の方から提案のメールが来たことだ。

僕は、他のサービスと同じようにてっきりコピペのメールだと思っていたのだけど、目を通してみるとちゃんと僕のブログを見てメールを送ってきていただけているということが分かった。

以下が、受け取ったメールの一部である。

 

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もちろん、同じような内容のメールをたくさんの人に送っているのだと思うけど、このようにほんの少しでも「自分が個人として認識されている!」と思えるのは本当に嬉しいことなのだと改めて実感した。

 

誰かに個人として認識されるというのは、自分が何者かになることだ。

家のお風呂が壊れていて、ここ2ヶ月銭湯に行っているのだけど、先日お金を払うときに初めて「いつもありがとうございます」と言われた。そのとき、僕は「お風呂に入りに来る人」から「いつもお風呂に入りに来る人」になれたのだ。

思えば、僕はずっとそうして何者かになりたくて頑張ってきたような気がする。大学の講義でも、最前列に座って先生の話を熱心に聞いていた。演劇をやるときも、アンケートに自分の役について特に書かれていると最高に嬉しい。近所のセブンイレブンで、何も言わないのに「ナナコですね!」と言われると少し恥ずかしいけれど、やっぱりいい気分なのだ。

 

自分がされても嬉しいことは他の人にもしていきたい。あまり話したことのない人もちゃんと名前で呼ぶとか、全体だけでなく個々人も褒めていくとか、そういう照れくさいけれど些細でいつでもやれそうなところから、始めていければなあと思う。

 

僕は全く時間がなくて触れていないのですが、PVモンスターも非常に面白いサイトだと思います。クラウドソーシングサービスやブログアフィリエイトより儲かるかというと人それぞれだと思いますが、まずは試してみるのもいいのではないでしょうか。

 

ミュージカル「CAPPA!」を終えて

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何事も終わってしまえばあっという間だったなという感情しか残らなくて、今回の「CAPPA!」も例に漏れずといった感じです。

 

元々は昨年の7月に行われるはずだったこの公演。震災の影響で延期となり、夏には予告編となる「プレCAPPA!」を上演。それからまた7ヶ月の時を経て、今回の「CAPPA!」本公演へと至ったわけです。

 

そう考えると、足掛け1年以上も稽古をしていたことになります。その他にもいくつか公演はあったし、数度しか稽古のない月もあったけど、それでもこの1年間はずっと「CAPPA!」が頭の片隅にいた。それが終わってしまったというのは、なんだか不思議な気持ちがします。

 

高校生の頃の自分に「23歳になっても演劇やってるよ」と言っても、それほど驚かないのではないかなと思います。当時は演劇とは無縁の生活を送ってたけど、小説を書くのは好きだったし、演劇部に興味がないわけじゃなかった。

だからこそ、大学2年生になるタイミングで、演劇部に入るという選択ができたんだと思います。

でも、ミュージカルに出てるよと言ったら、さすがに信じないかも。しかも熊本で。さらにさらに、のべ1500名もの人たちの前で。これは、大学2年生の自分も3年生の自分も信じないかかもしれない。全くそういう世界とは無縁に生きて来たから。

僕にとって演劇というのはほとんど呪いみたいなもので、やめようと何度も思ったのにまだずるずると続けている。これはいろんな方に失礼かもしれないなと思いつつ、正直に書くのですが、僕には演劇に対する主体性というものがほとんどありません。呼ばれたら出る、というスタンスでここ一年は瀬上大吉氏によく召喚されています(もしかすると、大吉氏が呪いの正体なのかもしれない)。

でももちろん、嫌いだったら演劇なんてやってるわけがなくて、誘われたら出ますって即答しちゃうし、ところがいざ稽古が始まってみると休みが潰れるのでなんで引き受けちゃったんだろうとか考える。けれど、やっぱり終演後のあの達成感だけは、何物にも代え難い。なんて表現を使うと陳腐になってしまうのですが、僕にとって何物にも代え難いものって、実はこの「終演後の達成感」くらいかもしれない。もっと演劇を大事にしなくちゃ。

 

「CAPPA!」で一番好きな登場人物を選ぶとすれば、セトハかなあと思っています。もちろん、他の登場人物にもそれぞれ個性があってたいへんおもしろいんだけど、セトハが頭一つ抜きん出ているように感じます。

どのような環境においても、常に下から這い上がる力。決してナンバーワンやナンバーツーにはなれなくて、ナンバースリーの位置から野心をめらめらと燃やしている。そういう人間らしさ(キャッパなんですけど)が大変個性的で面白いなあと感じました。

 

他にも色々と書きたかったのですが、思い出にばかり浸ってもいられないのでこの辺りにしておきます。

 

次はダイナソーミュージアムの第三回公演に出演いたします。お時間ある方はぜひ。

 

レモンの花の咲く丘へ~その日のために~